2.妊娠中の水害
妊娠五ヶ月頃の事。
遠い病院から、車で三十分程の個人の産婦人科に転院となった。
ようやく近場で診て貰えるとホッとしたのもつかの間ーー
運命の神様は、どうやら私を遠い病院に通わせるのが好きらしい。
ザーザーと大きな音を立てて打ち付ける雨。
この年、九月に入ってからずっと雨が降り続いていた。
「道路が冠水してて動けないんで、仕事休みます」
そんな風に旦那様が会社に電話をしている。
電気は点かず、水道からも水が出なくなった。使えるのはガスだけだ。
この時はもうそろそろ雨も止んで、すぐに元の生活に戻れるだろうと楽観視していた。
その日の夜はやる事もないのでさっさと就寝。
しかし何時間か経つと、別室で寝ている旦那様の声が聞こえて来たのである。何を大きな独り言を言っているのかと、目を覚まして立ち上がると、旦那様がやってきた。
「どうしたの?」
「今、下の階の田川さんが俺の部屋に来た」
「え?」
「何かベランダで『すみません』って声してると思ったら、一階が水没してベランダのパイプ登って来たんだって」
「はぁぁあ??」
水没? ベランダを登ってきた? な、なんで? 普通にドアから出れば良いのに……
若干のパニックを起こしながら、窓を開けて下を懐中電灯で照らしてみる。
集合住宅の二階から、懐中電灯を照らしただけで水位が分かった。ついそこに、水の表面が確認できたのだ。
いつの間にこんなに近くまで水が来ていたのか。私達は全く知らずにグースカ眠っていた。
田川さんは寝ている時にチャポンという水の音がしたかと思ったら、もう浸水していたとの事だった。
ドアを開けようにも水圧で開けられなかったらしい。仕方がないからベランダからパイプを伝って登って来たと言うのだ。この光すらない真っ暗闇の中を。
着替えはリュックの中に入れて来たと言うので、バスタオルを渡して使って貰った。
まさか二階までは来る事ないだろう……という思いとは裏腹に、どんどんと水は迫って来る。一階が完璧に水没するまで、そう時間は掛からなかった。
最初は嫌だ嫌だ怖いと言ってた私だったが、女は腹が決まると早いのだ。
「よし、家を捨てるよ。三階に避難させてもらおう」
そう言うや否や、避難袋と大事なデータが色々詰まっているノートパソコンを抱えて三階の石井さんの所に避難させて貰う。
避難させて貰って言うのは何だけど、石井さんと田川さんはヘビースモーカーで、妊娠してる私はちょっと……いや、かなり嫌だった。けど人の家なので、煙草やめてくださいとも言えない。
極力煙草の煙を吸うまいと、少し離れて窓際にいたら、「助けてー!」という声が聞こえて来た。
談笑している男どもを「ちょっと静かにしてください」と黙らせ、みんなで耳を澄ます。
ザーザーという物凄い音の中から聞こえる「助けて」という声は確かにあった。男たちが弾かれたようにベランダに出る。
「助けて、助けて!」
屋根の上に男女が立っていた。屋根の上ももう水が迫っている。二人ともずぶ濡れだ。
「大丈夫かーー!?」
旦那様が叫んだ。
「そっちに泳いで行くんで、引き上げてください!!」
女性がそう叫んだ。ご近所さんだけど、挨拶程度の仲だ。でも助けないわけにいかない。
「分かった、二階に行くから待ってろ!!」
そう言うと、三人の男たちはみんな二階に向かって行った。
うわー、私はどうしよう……?! と思いつつも、私なんかでも役に立てる事はあるかもしれない。
そう思って二階の自宅を目指すと、そこはもう膝くらいまで浸水していた。
流石に泥水の中に入るのは躊躇する。こんな所に入ったら絶対に冷える。お腹の子は大丈夫だろうか? 折角、ようやく授かった命なのに、ここで待ってた方がいいんじゃないか? と。
でも助けてって言っている二人は泳いで来るのだ。着替えが必要になる。それは男たちには出来ない、私の仕事だ。女物の服だっている。
私は意を決してザブザブと歩きにくい水の中に入って行った。ベランダを見ると、二人が飛び込んで泳いで来ている。男たち二人は物干し竿を差し出し、もう一人は懐中電灯を照らして誘導している。
「更紗も懐中電灯で照らせ!!」
「は、はいっ」
旦那様に言われて私も暗やみを照らし、「頑張って!」と声を掛け続けた。
ようやく物干し竿に手が届き、二人を引っ張り上げる。
しかしホッとしたのも束の間、今度は「こっちも助けて!」という声が聞こえて来た。よくお世話になっている、伊波さんという老夫婦だ。二人暮らしのはずなのに、窓からもう一組若い夫婦が不安そうにこちらを見ている。低い所に住んでいる人が、伊波さん宅に避難していたのだろう。
「伊波さん、泳げるんか!?」
旦那様が、また声を張り上げる。
「私、泳げんのよー!」
どうする、とみんなは顔を見合わせた。
結婚してから泳ぐ場所を避けていたので、うちには浮き輪すらない。私は泳ぎが得意じゃないんだから、用意しておくべきだった。
どうする、どうする、どうする。
雨は容赦なく叩きつけて来る。為す術もなかった。そこから屋根に飛び移って朝を待つしかないかもしれないと旦那様は言ったが、伊波の奥さんはそれも出来そうにないようだった。窓から登って屋根に飛び移るとか、私だって多分無理だ。
朝まで励まし続けるしかないか? と思ったその時、奇跡が起こる!
ボコンッ! と何かが水の中から浮き上がってきた。
それは畳。しかも何故か二枚重なって。
本物の畳だったなら浮かなかっただろう。軽量化された安っぽい畳だ。だから浮かんで来た。多分、下の階の田川さんのところから出てきたのだろう。
「あれに乗って、こっちに来れそうじゃないか?」
「誰かが泳いで畳を押さないと無理だな」
こちら側でそういう結論に達すると、「俺が行きます」と、泳いで渡って来たばかりの若い男性が、再度どろ水の中に飛び込んで行った。
泳いで畳のところまで辿り着くと、それを押して伊波さん夫妻を乗せ、またこちらに押して泳いでくる。中々進まず、その間に畳の上に乗った二人はずぶ濡れ状態だ。これは、沢山の着替えが必要になる。
私は周りを照らすのを泳いで来た女性に任せ、まだ水没していない服やズボン、タオルを持てるだけ持つと、三階の石井さんの家に放り込んだ。そしてそのまま四階に突っ走る。石井さんの家であれだけの人数を避難させるのは大変だ。
四階には尾崎さんという女性が住んでいて、すぐに受け入れを了承してくれた。
それらが終わって二階に戻ると、伊波さん夫婦はこちらに助け出されていてホッとする。もう一組の若い夫婦を助けようと、また若い男性が畳を持って泳いで行った。
そして全員救出されると、田川さんの部屋で着替えて貰う。着替えをリュックに入れてた人もいたけど、結局雨で濡れて使えなかったようで、着替えを差し出すと喜んでくれた。
とりあえず、目の前で助けを求めてた人達は助ける事が出来た。私たち夫婦は煙草の匂いのしない尾崎さん宅にお世話になり、そしてようやく長い夜が明けたのだった。