76 博打の結果
川に攻め込んでいっても、前日までとの違いをはっきりと理解した。
風向きが変わったと言ったが、まさしくそういうものだ。
戦場は空気に支配されている。勝つと確信している兵士たちと、敗れるかもと不安になっている兵士たちがぶつかれば、必ず前者が勝つ。
これまでは大半の戦闘で最初から俺が有利なように進めていたから、この変化をそこまで認識していなかった。こうも変わるものなのか。
昨日までならまだ立ち向かっていた、いや恐れずに攻め込んできていたはずの敵軍があっさりと背中を向ける。
そこを俺たちの軍が追う。
戦場が命を懸けた追いかけっこに見えてくる。否、それが戦場の本質なのか。
――特殊能力【覇王の風格】発動。覇王として多くの者に認識された場合に効果を得る。すべての能力が通常時の三倍に。さらに、目撃した者は畏敬の念か恐怖の念のどちらかを抱く。
俺の軍が勝利を確信してくれたおかげだな。
「このまま行くぞ! 陛下に摂政の軍が腰抜けだと思われぬように腹に力を入れろ!」
声を張り上げながら進軍する。そろそろ川を渡り切る。ようやく、本格的に敵の陣地を攻める番になった。
「そうだ! 王様が大聖堂を攻めてくれてるんだ!」「こっちは正義だ! 負けるわけがねえ!」「みんな大聖堂は苦々しく思ってんだ! ぶっつぶせ」
そうだろうな。オルセント大聖堂の力をかさに着て威張ってる奴らもたくさんいたはずだ。その連中に対して憎悪を募らせてた奴も多いだろう。
この戦いで、大聖堂派はつぶしてかまわない存在になった。人間の意識が変質してしまえば、もうこちらのものだ。
川の先では敵軍は想像以上に混乱していた。王は静観を決め込むと思っていたんだろう。長らく、王が軍事的に直接誰かの肩入れをすることはなかったからな。
王の軍の動きを把握してるケララも近くに侍らせていた。どのみちケララ隊は今回はほかの将につけていたから、すぐに部隊は率いることができない。
「ケララ、この戦、最大の功労者はお前だ。よく、陛下をそそのかしてくれた」
「陛下は昔から、変わりたいと思っておられました。自分こそ王となって、王家中興の祖になるのだと」
「その陛下のお気持ちを読み取り、引きずり出したお前はやっぱり偉い」
アケチミツヒデという職業だったか。そんなもの気にせず、登用して本当によかった。
「おそらく、これまでのすべての王が自分の名をもっと深く残したい、活躍したいと思っておられたはずです。しかし、動く勇気を持つことができなかった。軽々しく動くには、代々の王に戦場の経験が足りませんでしたので」
「それをお前は説き伏せたわけだな」
「自分だけでは不安でしたので、ご正室のお力もお借りしました」
「あっ」と思わず俺は声を上げた。
妻のことなど、戦場ですっかり忘れてしまっていた。そうか、とくにルーミーにとったらこれほどまでに戦争を恐ろしく感じることもそうなかっただろうな。
「ご正室はなんとしても兄である陛下に軍を出してもらうと息巻いておられました。そのお心も陛下を動かしたかと」
「わかった。王都に帰還したら、めいっぱいルーミーを抱き締めてやる。むしろ、それしかできないのが歯がゆいぐらいだ」
「一日中、ご正室のお部屋で二人でお過ごしになられれば、一番の恩返しになるかと」
政務の量を考えると、なかなか同意しづらいところだけど――
「考えておく」
俺たちの軍は大聖堂軍の奥深くに攻め入っていく。ここまで入り込めるということは、もう、向こうに防御の意思がないということだ。
罠ということもないだろう。取り囲むにしても、ここまで兵の気持ちが散っていては実現させようがない。
「おそらく、同盟者たちが先に撤退したせいで、軍全体に混乱が生じたのでしょう。浮足立っているのがわかります」
「そうだな。この調子だと、まだ大物が残っているかもな」
敵の真っただ中に進むが、相手に戦意がないのだから危険はほとんどない。
そして、やがてその男の顔を見つけることができた。
カミト大僧正、本当にここに来ていたか。
周囲の連中が「軍人ではない! 神官だ!」としきりに叫んでいる。立場上、第一に退散するということもできず、しかも勝手に逃げ出す頼りにならない仲間がいて、貧乏くじを引いた状態だ。
「大僧正、お気分はいかがです?」
俺は馬に乗ったまま、傲然と言ってやった。
向こうは魂が消えいったような目をしていたが、それでもどうにか心を持ち直したようで、息を呑んで大僧正らしい顔つきになった。
「摂政、ここで愚僧の首を奪うおつもりか?」
「戦場にあなたがいらっしゃった以上、そうしても文句を言われる筋合いはないが――」
俺はその顔をにらみつけた。これからもやり合うことになる顔だからだ。
「――今回は生かしてやる。あなたがここで死ねば、あなたの失態は信者から忘れ去られ、代わりに俺に憎しみを向けるようになる。あなたはせめて陛下にはその非を詫びていただく」
忌々しそうに、大僧正は歯ぎしりした。少なくとも敬虔な神の奴僕の顔じゃない。
「それと、もう一つ理由がある」
そちらのほうが理由としては大きいかもしれない。
「あなたは俺を殺そうとまでは考えていなかった。せいぜい、こちらに痛い目を見せて権威を失墜させてやろうというぐらいの気持ちでこの戦に臨んだ。だから、こちらも生かしてやる」
「わかった。ご温情感謝する」
「次からは戦場に来る時は殺すつもりで来ることですな。この次は言い訳を認めませんからな」
やがて大僧正は馬に乗せられて撤退していった。
「摂政にしてはやさしいご判断ですね」
ケララの言葉が本心じゃないことはわかっていた。それぐらいの政治的判断はできる。
「大聖堂にとったら、大敗して生き恥をさらすより自分が死んだほうがいいことぐらい、あの男も知っている。それができない男だ。武人でないからか、それとも次の代を担う者がまだ出てきていないのか」
今回の博打は俺の勝ちだ、大僧正。
「これで俺の、いや、俺と陛下の権威は確立されたな。王都周辺部は大聖堂のそばを除けば、おおかた俺のほうになびくだろう」
やっと、まともに摂政の力をふるえるよ。