119 正妻との一夜
俺はその日、久しぶりに正妻であるルーミーのもとを訪れた。
長く、従軍していたから、ルーミーと会う機会もなかった。それに今日は王であるハッセと面会してきたばかりだし、ここで違う妻のところに行くというのは、外聞が悪い。
それに、ルーミーになら愚痴を言えると思ったのだ。
「まったく、お兄様にも困ったものですわね」
先にルーミーのほうから言われてしまった。
そう、ハッセが自分が総大将になるなどと変なことを抜かしたのだ。
ルーミーはペットである長毛種の猫を膝に載せて、撫でている。どこかの地方からの贈り物だ。摂政とその妻ともなれば、贈られてくるものだけでも、とんでもない量になる。
とはいえ、今更、追加の富を求めるような身分でもない。だからこそ、貢納を試みる側も、こういった不思議なものを贈って、歓心を買おうとするのだ。
その猫は少なくともルーミーがいたく気に入って、あやしている。とくにまだルーミーには子供がいないから、余計にその猫をかわいがるのかもしれない。
「お兄様も戦をまったくしてこなかったわけではありませんわ。何度か命を狙われて、剣や槍を取ったこともございます。しかし、別にお兄様の武勇で生き延びてきたわけではありません。すべては運がよかったから」
「運がよいことも王の重要な条件だ。不運であれば、とても生きてなどいけないからな。一度も誰からも命を狙われたことのない王など、古今いないだろう」
俺のほうからルーミーの兄を非難しなくてよくなったのは、幸いだ。むしろ、弁護にまわる。
「しかし、お兄様はなぜだか自分に武勇があると信じている節がございます。もちろん、あなたに勝てるなどとはつゆとも思っていませんけれど、あれでも生涯負けなしには違いがありませんので」
ルーミーは飼い猫を胸にかき抱いた。猫は暴れたりせず、おとなしくしている。すっかり、ルーミーをみずからの主であると認めているようだ。あるいはルーミーを母親とでも考えているのだろうか。
たしかに今のルーミーほど母性を感じさせてくれるような妻はほかにいない。修道院で育てられたルーミーには慈愛の精神が宿っている。
もし、俺が王になれば、ルーミーは王妃――つまり、国母とも呼ばれる立場になる。国母という言葉がルーミーにはよく似合うだろう。
いや、しかし、このままルーミーに子が生まれなければ、王妃としてセラフィーナが立てられるのだろうか?
後宮の争いも歴史上、何度も繰り広げられてきた。
王妃が王の死後、その愛妾を殺したとか、その逆で愛妾から王妃の座にのぼりつめた者がほかの妻たちの一族を滅ぼしたとか……。気分が悪くなるような話がいくつも転がっている。
正直、俺はそんなことは絶対に繰り返したくないと思っている。王にもなる前で、気の早い話かもしれないが、自分が愛した人間が、悲劇的な目に遭うことはなんとしても避けたい。
「中興の祖として活躍したいという陛下のお気持ちもわかる。だが、次の戦はまさしく天下分け目ということになるかもしれない。戦慣れしてない陛下が前に出るのは困る。それこそ、もしも身に何かあれば……」
俺は言葉を濁したが、これで伝わらないことはありえないだろう。
もしも王のハッセが落命することでもあれば、前王は自分こそ王だと意気を上げるだろう。空気が完全に向こうが王だというものに変わりかねない。
「そうですわね。お兄様にお子はいらっしゃいますけれど、娘が二人、さらにまだ物心もついてない息子が一人、王位継承として、なんとも心もとないところですわ」
「まったく、そのとおりだ。陛下には自重していただきたいところだよ」
そう、ハッセが死ぬと王権の所在は途端に不安定になるのだ。
いくら、俺に支えられているだけの存在とはいえ、まだハッセが成人だから、この王権を認めている領主も多い。もし、これが幼帝に変われば話はまったく変わってくる。
幼帝自身に権力はない。その外戚が有力者であればいいが、家柄が古いだけの没落しかかっている貴族の娘だ。とても、力があるとは言えない。
なので、ハッセが戦争の矢面に立たれるのは、今の俺にとって、いや、王国にとって百害あって一利なしなのだ。
――弱いのに、戦には出ようとする。まったく、足利義昭とよく似ておるわい。義昭も兄には似ず、どうにも弱かった。
オダノブナガが担いでいた奴も似た感じだったのか。
――弱いおかげで助かりはしたがな。とにかく、強情な男だった。
強情という点ではハッセも厄介かもしれないな。
「ルーミー、次の戦の準備までかなり時間がある。その間に陛下を説得する役目をお願いしたいんだが」
笑顔でルーミーはうなずいた。
「ええ。わたくしもお兄様は王都で静かに暮らすのが幸せだと信じておりますから。戦になど出るべきではありませんわ。もしものことがありますから」
ひとまずの話はついた。
ここから先は夫と妻の時間だ。俺はルーミーの肩に手を伸ばす。
「あやすのは猫から俺に変えてくれないかな。ずいぶん、ご無沙汰でお前の肌も忘れてしまいそうだ」
「どうせ、戦の途中でも遊んでおられたのでしょう?」
心当たりがまったくないわけではないので、俺もちょっと言いよどんだ。たとえば、マチャール辺境伯サイトレッドの妹、タルシャとか……。
「あら、やっぱり。お恨み申し上げますわ」
冗談めかした調子で言うと、またルーミーはうなずいた。
「そういう方に嫁いだのが運の尽きですわ。今はわたくしを愛してくださいませ」
ルーミーは本当に美しい娘に成長した。体つきだけでなく、品のよさみたいなものが染みついている。まさしく極上の女だと思う。
死ぬまでに一度、こんな女を抱きたいと考える男は多いだろう。
そんなルーミーを独り占めにできるのだから、摂政という地位は恵まれていると思う。危険も覚悟で続けるだけの価値はある。
ベッドの中で疲れて眠っている間に、ルーミーに抱きつかれていた。
「そういえば、あなた、お伝えしておかないといけないことがありましたわ」
「こんなところでか?」
いったい、なんだろう?




