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子が、いるという。
オマールに幸せを与えてくれた最愛のひとの身体に、オマールとの子がいるという。
それを喜ばないわけがない。男として、恋人として、喜悦を感じないわけがない。
けれど、と、オマールは走りながら拳に力を籠める。
もうすぐオマール達は王都につく。決して穏やかな交渉にはならない。精鋭であり、軍内でもトップクラスの実力を持つオマールは、戦場を切り開きその中心で槍を振るうだろう。
その中で、生き延びられるのだろうか。
王都には奴隷である兵士が集められていると言う。その中にはオマールと拮抗する力の持ち主だっているはずだ。大勢いるかもしれない。
その中で、オマールは勝利を勝ち取って、更に生きて帰れるのだろうか。
(クロエと生きたい、それは偽りない本心。だが…)
もしもを想像してしまう。いや、その可能性の方がずっと高い。
死んでもいいとは思わない。生きていたいと願う。だがそれは願いだ。儚い願いに過ぎない。
オマールも、そしてクロエもそれをわかっている。承知の上で、二人は結ばれた。
クロエは覚悟している。オマールが戻らない未来を、それでも子供を生むのだと。
ならばオマールは、死の覚悟以外に何ができるだろうか。
(俺は死の覚悟の他に、もう一つ、腹を括らなければならない)
それがどんなに、絶望的なものであったとしても。
「クロエ…!」
息を乱して第三野営地に駆け込む。
ただならぬ様子に多くの者から注目を集めるが、それに構っている暇はない。手あたり次第にクロエの行方を尋ねる。鬼気迫るオマールに悲鳴を挙げる者も少なくないが、どうにかクロエに割り当てられた天幕を探し当てる。
「クロエ、俺だ、オマールだ!」
勢いよく入り口の布をめくれば、そこにいたのは二人。
オマールの最愛のひとは簡易ベッドに腰かけ、その彼女の傍で膝をついている男。
「なるほどね、君がオマール君か」
「あなたは」
「自分はノルベールというしがない心の医者だよ」
よろしく、と差し出された手を反射的にとってしまう。どこか人を警戒させない様子に一瞬湧き上がった嫉妬の炎が鎮火されていく。
「その様子だと、どうやら既に知っているようだね」
「リゼット殿から聞いた」
「もう、リゼットったら…黙っていてくださいと頼んだのに」
「自分も彼女には賛成だけどなぁ」
「ノルベールまで!」
親し気な様子に、そういえばこの男も初期の人間だったと思い返す。非戦闘人員だが、心に傷を負った仲間の、精神的なケアを務めていると聞いている。
心の医者、と男が言ったが、既にクロエに救われていたオマールが世話になることはなかった。しかし精鋭の中でも数人、この男の下でその傷を癒した過去をもつ者もいる。
男にしては随分優し気な雰囲気だと思ったら、そういうことかとオマールは納得した。
「では自分はここで失礼しようかね。ああ、オマール君」
「何か」
「……自分らの妹分、泣かせたら承知しないからな」
「…ああ」
「ん、頼んだよ」
「ノルベール、怖い顔してどうしました?オマールも顔が強張ってますよ」
「男同士の会話に笑顔はいらないかなぁ」
「同感だ」
「おや意外に気が合う。…じゃあね、クロエ、オマール君」
ごゆっくり、と伸びやかな声を後ろに聞き流して、オマールは先程まで男がいた場所に座る。
それにぴくりと震えたのはクロエで、少しだけ泣きそうな顔になる。
そんな顔をさせたいわけではないのだとオマールは口を開きかけるが、何故黙っていたと言いそうになって慌てて閉じる。
沈黙が、二人を包む。
普段なら心地よいはずの静寂が、今は痛い。どちらも視線をあげず、互いに触れ合うこともできない。
それでも、それを破ったのはオマールだった。
「生むと」
「え?」
「生むと、決めてくれたと聞いた」
「…勝手、ですよね。ごめんなさい」
「いや。謝るな。違う、そんなことを言わせたいんじゃない」
「オマール?」
「…………クロエ」
「はい」
「ありが、と」
瞠目するクロエの目の前で、オマールは深々と頭を下げた。
奴隷になっても、命令でも心まで誰かに頭を垂れたことは無かった。だが今、オマールは心の底からこの最愛のひとの決断に、感謝し頭を下げた。
「俺が死んだとしても、あなたはその子を生み、慈しみ育てるつもりだろう?」
「ええ。あなたの、私の愛するひとの子ですから」
「…怖く、ないのか」
「怖いです。でも、あなたもこの子も失うのは、もっと怖い」
先に動いたのがオマールなら、触れたのはクロエだ。
その指先が、下げられているオマールの髪を梳く。静かに、優しく。
「オマール、私はあなたに願っても良いですか」
「何を願う」
「私の、私達の下に必ず帰ってきて、と」
「クロエ、それは」
「あなたがどれほど危険な場所に向かうのか、多少なりとも承知しています。あなたは最初からずっと、そうでした。けれどそうであっても、私はあなたに惹かれる想いを抑えきれず、あなたに身を委ねました。それを後悔したことは一度もありません」
いつしかオマールの髪に触れるのは指先ではなく、彼女の腕、そして胸になる。
抱き留められたオマールは、腹の子をも守るように、とてもゆっくりと腕をその背に回す。
温かいと、オマールは素直に思う。クロエが、オマールが生きている証だ。そして今は、この薄い腹の中に新たな命がある。
(帰らないわけには、いかない)
オマールはそれを言葉にして、誓う。
「帰ってくる」
「…それを、私は信じても?」
「必ずだ。必ず、帰る。あなたと、その子の下へ。脚を切り落とされても、腕を引き千切られても、生きて、あなた達の下へ」
死ぬことへの覚悟と、生き抜くことの覚悟。
それは愛するひとを一生縛り付ける鎖になる。オマールが戻らぬ人となれば、クロエを生涯縛り苦しめ、悲しませるだろう。並大抵の覚悟で口にして良い言葉ではない。
それでもオマールは、クロエに誓う。クロエとその子に、偽りなく誓う。
「あなたと、子と生きる未来を、約束する。だからクロエ、待っていて欲しい」
「…わかりました、待ちましょう。オマール、私のただ一人、愛したひと。私はこの子と、あなたの無事を信じ、待ちます」
励ますように、誓うように唇を攫う。
甘美な感触、けれどどこか苦しい口づけだった。待たせる覚悟に身が震え、待つ決意に涙を流す。
願いでは終わらせない。生きて戻り、クロエと共に生きる。
決して、夢では終わらせない。自由を手に入れたその先で、愛する家族と共に暮らす。
この時、オマールとクロエは、脆くも強い絆を、確かに繋いだ。




