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いつもなら、仮眠をする時間だったが、マリーは花屋のアドニスに、しばらく休ませてもらえるように、お願いするために、早く家を出た。ラファエル王子との約束をした時間には、花屋のバイトを休まなくても間に合うのだが、日頃の格好では王子様には会いたくなかった。ただでも見下されたのだ、これ以上バカにされたくはない。それなりの格好をするのなら、それなりの化粧も必要だ。それが花屋のバイトを終わって、服を着替え、化粧をする時間はどうやり繰りしても、一時間以内でやることなど…そんな余裕はなかった。
花屋までの道をとぼとぼと歩きながら
「そうは言ったものの、花屋の収入がないときついよなぁ。」
と言って歩く足並みは、遅くなっていくばかりだったが、ようやく店の前についたが、表はまだ閉まっており、マリーは少し迷ったが、裏は開いているはずだと足を向けた。
花屋の仕事は本来朝が早い仕事で、花市場のセリは午前7時から11時ぐらいだ。幼い少女が大きくなったらお花屋さんになる…という可愛い夢を壊したくはないが、外から見るほど、綺麗でもないし、かなりの力仕事でもある。でも、マリーは花屋の仕事は好きだった、色とりどりの花に囲まれると、ほんのちょっぴりだが、自分があの花の妖精になった気がして…心がときめくからだ。だが、店主のアドニスさんの必要以上のスキンシップが、そのときめく心に、毎回水を差してはいるが…。だが、マリーはアドニス自体には、嫌悪感はなかった、なぜなら見た目より、遥かにきつく辛いこの仕事を楽しそうに、そして真面目に働くところは、立派だと思っているからだ。だから、突然、長く休みたいと言うのは、申し訳なかった。
店の裏にある水場で、バラのトゲをとっている後姿のアドニスさんに
「すみません。アドニスさん、マリーです。」と声をかけた。
「マリーちゃん?どうしたんだい、こんなに朝…」
と言って振り向いたアドニスは、ポカンと口を開け、固まって動かなくなった。 動かないアドニスに、マリーはどうしていいものかわからず、いつものくせでヘラリと笑ってみたら…
「ほんとにマリーちゃん?!!いや~驚いた、こんなに美人だったとは…日頃、女を捨てた10代と陰で言っていたんだけど…こりゃぁ、驚き…」
と叫ぶアドニスに、ヘラリと笑ったマリーの顔は、見事に引きつった。
日頃は、女を捨てた10代と思っていたの、ひょっとしたらスキンシップが激しいのは、ちょっとエッチな気持ちが入っているんじゃないかと思っていたんだけど……違っていた?!
女を捨てた10代……。
陰で言っていたのなら、一生黙ってて欲しかった。今…言うなぁ~(涙)
*****
そしてラファエルのほうは、眠れないまま朝を迎えていた。
「彼女は、今アドニスと言う男と一緒なのだろうか…」
と言った言葉は、自分が言ったにも関わらず、かなりラファエルの心をえぐったが、頭を振り
「俺だってそれなりに、女を知っているが、彼女のあの言い方は、まるで……そうまるで棒読みだ。だが、ごく普通の少女が棒読みだが、あんな言い回しをどこで覚えてくるんだ?」
遊んでいるようには見えない。だが「彼女は…」そう言いながら、ラファエルはソファの上に投げ置いた上着を取ると、頭を冷やす為に部屋を出て行った。何を考えているのか、自分でもわからなくなってしまったからだ。
堂々巡りだった、彼女を純粋な少女と思えば、次の瞬間、手馴れた女のようにも思え、少女の純粋な面と、艶やかな顔を見せる彼女に、俺はひとりで勝手にオロオロしている。それが、このなんとも言えない気分にさせているのかもしれない。
宿を出て、空を見た。曇った空は重苦しくて、突いたら大粒の涙のような雨を降らしそうだった。町全体があの重たそうな雲のせいか、なんだか薄暗い。でも町は、店を開ける準備のせいだろう、人の声があちらこちらから聞こえてきて、町の一日の始まりを、俺に教えてきた。
もう8時過ぎだ、町が動きだしていて当たり前か…と苦笑し、のんびり宿で遊んでいる自分が情けなく感じる。お忍びで来ているのだが、さすがのロレーヌ国とて、俺がここにいるのは知っているだろう。そろそろ、ロレーヌ国の王宮へ行ったほうがいいかもしれない、この宿だと息抜きができると思って、王宮に行くのを伸ばしていたが、息抜きどころか…イラつくばかりだ。もう、彼女のことは考えまい。離れるのが一番だ。 明日にでも、ロレーヌ国の王宮へ、使いをだして、謝罪と賠償金の話を進めよう。
もう……潮時だ。
だが、走り出した運命は簡単に止まることはなく、またふたりの線を繋ぎ、結ぼうとしていた。
それは…女性の声だった。
「やっぱり、無理ですか?」
女性の困ったような声が、ラファエルの耳に飛び込んで来た。
彼女の声?間違いない彼女の声だ。
店の裏から聞こえているようだが…
「頼むよ。せめて、週のうち半分とは言わない。週2日でダメかい?さすがに次の女の子を簡単には見つけられないから頼む。」
「いえ、こちらこそ急な話ですみません。わかりました。週2日で、こちらこそお願いします。」
「ごめんなぁ、ライナスの所もあるから、体が辛かったらやめてもいいと言っていたのに…すまないなぁ。じゃぁ、今日は休んで良いから、明日からまた頼むよ。」
「ちょっ、ちょっ、ちょっと!アドニスさん!!」
ラファエルは見てしまった。
アドニスと言う男に、抱きしめられている女性の後姿を…
ラファエルの心は呆然としていたのだが、体は、どんどんと抱き合うふたりに近づいていき「失礼…」と言って、ラファエルはふたりを引き離すと、女性を見て驚愕した。
黒縁の眼鏡をかけているときも、あの丸い大きな緑の瞳は愛らしかったが…今、目の前にいる女性の緑の瞳は猫の眼の様に、横に長く、それを縁取る睫がより艶やかで…息を飲んだ。
「君…君なのか…?アデラなのか…?」
と言ったラファエルの声は掠れ、青い瞳は大きく見開いて、しばらくマリーを見つめていたが、その眼はだんだんと細くなり……また、言ってしまった。彼女の姿があまりにも美しすぎて、他の男の為に、艶やかに変わった姿が嫌で…
「相手によって、変えるのか?ケリーのときは真面目な学生風で、そして…」と言って、アドニスを睨むと
「アドニスに会うときは、艶やかな女に変身か…。」
突然現れたラファエルに、マリーは驚きのあまり、眼も口もポカンと開けていたが…今の言葉で顔が歪んだ。
どこまで…どこまで!人をバカにするんだこの人は…
「約束の時間は、18時からでしょう。それまでは私は自由よ。何をしようが勝手でしょう。」
マリーの冷たい言い方に、ラファエルの言葉も氷の矢になって
「どうやら、今日はアドニス殿とは約束はないようだから…君の時間を俺が買ってやる。」
買ってやる…その言葉にマリーは、唇を噛むと…
「そう、いいわ。行きましょう。でも、王子様、ひとつお教えいたしましょう。こういう誘い方は、無粋ですわよ。男女の微妙な情のやりとりも、粋な遊びのやり方もわからないようでは…いくらその麗しいお姿の王子様であっても…興ざめですわ。」
ラファエルは、辛らつなマリーの言葉に…俯いた。
マリーは、そう言ってアドニスに
「アドニスさん、今日は本当にごめんなさい。明日からまたよろしくお願いします。」と言って頭を下げると、動けないラファエルを見つめていたが…宿のほうへと歩き出した途端…
雨がとうとう我慢できず一滴…地面へと落ちてきた。
マリーは、立ち止まり空を見上げ、そして後ろを振り返り、ラファエルに…
「王子様、どうなさるおつもり?」
ラファエルは、顔を歪めマリーに近づくと、手を握り…
「無粋か、確かにそうだなぁ。では恋に手馴れた君に、手ほどきしてもらおうか。」
そう言って、その手を口元に持っていき、掌の上に口付けを落とすと、徐々にその口付けを上に上げ、マリーの腕に何度か口付けを落した。
それは…いつもどこか冷めた眼で女性を見ていたラファエルではなかった。
純粋な少女でも…、手馴れた女でも…もうどちらでもいい。
その手馴れた姿が、本当なら……寵妃に迎えてやるだけだ。
だからキスは…
懇願のキスから…欲望のキスへと変えて君に…贈る。