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アドニスさんの送ろうと言う言葉に、頭を横に振ると、アドニスさんは心配そうに眉を顰めたが、私はにっこり笑い「大丈夫よ。」と、少し離れたところを指差した。
私が指差したその方向は、湖に張り出したように作られた舞台で、灯された明かりがまるで、昼間のように明るく、十数人が明日の花祭りの準備に追われていて、大きな声が響き、アドニスさんが心配する事はないように見えたが、それでもまだ、アドニスさんは心配そうに私を見つめ、どういったらいいのか、考えあぐねているようだったが、もう一度、慌ただしく動く人達を見ると、ゆっくりと私へと視線を移し、「気をつけて帰るんだよ」と言って、何度も心配そうに振り返って、帰っていった。
「ちょっと前まではスキンシップが多い人だったけど…アドニスさんは良い人よね。」
そう口にすると、その口元が少し綻んだが、アドニスさんのことを下世話と言ったアルバーニ伯爵を思い出し、口元に浮かんだ笑みは…一文字になって徐々に厳しくなっていった。
アルバーニ伯爵は、王家の血に拘り過ぎている。
もし、王子だったら…何でもできるとでも思っているのだろうか?
王家の血筋だから、立派に国の改革をできるわけではないのに…。それは…個の才能だと考えた事もないのだろう。目の前で自分がやりたくても、出来なかった国の改革を、他国の王子なのに、私の兄を使って改革をした事を見てしまうとそう思うのかなぁ。
国は違えど、王家の血を引く同じ年代の男同士。だけど大国の王子と小国の伯爵。
それが…引っかかっているのだろうか?
王家の血…。
アルバーニ伯爵を刺激し、そしてラファエルの心と体を縛っている。
それは、私とラファエルを遮る壁。
その壁は高くて、見上げる度に辛く…そして悲しかった。
でも、今なら言える。
愛した人のその体にあるものなら、私はそれをも愛していると。
私は彼のすべてを受け入れ…愛していると。
「ラファエル…。」
髪を結んでいたリボンを解き…風を髪の中に入れ、そっと眼を瞑って…あなたを思う。
私より、ずっと年上なのに…
頭も、剣の腕前もすごいのに…
繊細で傷つきやすい人。
愛を拒みながら、愛を求める天邪鬼。
ほんとに…困った人。
クスクス…
困った人だけど…でも大好き。
眼を開くと…そこには…
湖面が鏡のようになり…月がその美しい姿を湖面にも見せている。
いつか…そう、いつかでいい。
ここで、ラファエルに会いたいな。
あの御伽噺のように、王子様と妖精のように、この湖で会いたいな。
恋って叶うのが一番だけど、こうやって好きな人を思うだけでも…心がほんのり温かくなるんだ。
例え……叶わなくても、胸に溢れるこの温もりをずっと持っていたい。
湖面近くへと体を移し、両手に持っていたスカビオサとスノーフレークのコサージュを、髪に飾ろうと片手に持ち替えて、鏡のようになった湖面を覗き込むと、湖面に映った私は…笑っていた。
花の妖精には程遠いけど、でも恋をしている私は少しは美人に見える…と思いたい。
そう思いながら、また笑った私を取り囲むように、突然風が吹き、手に持っていたコサージュが空へと、まるで誰かが奪ったように舞い上がり湖へと運ばれ、ゆっくりと湖に、波紋を広げながら落ちていった。
「あっ!」
思わず、手を伸ばし湖へと足を入れたけど…届くはずがない。
胸の前で両手を握り締め、沈んで行くコサージュを見つめていると、押し寄せる訳のわからない不安に襲われた。
嫌だ…。嫌、
胸の中の温もりまでも、私から逃げて行きそうで、怖くて体を抱きしめながら
「お願い…側にいて…お願い。」
私の足は、沈んで行くスカビオサとスノーフレークのコサージュを追うように、湖へと動いたが、
足先を湖に入れた途端…私の体は、逞しい腕に包みこまれ止まった。
「…」
唇が震えながら紡いだ言葉は、怯えていた胸の中の温もりを安心させ、心の中により大きく広がってゆく。
「…バカ。なにやってんだ。」
それは…低くて優しい声。
「…だって…」
振り返ろうとした私をその腕はより強く抱きしめ、
「まだ、振り向くな。」
そう言って、大きく息を吐くと
「行くな!人でも妖精でも関係ない。おまえだから、おまえだから愛してるんだ。 すべてを捨ててもおまえと一緒にいたいんだ。俺を置いてくな。」
私は頷くと…大きな声をあげて泣いた。
それはあの御伽噺の王子が、花の妖精に言った切ない愛の言葉。
それは待ち続けた人の言葉だった。