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「あの、ラファエル殿下、そろそろご出立をなさらないと…」
従者の声に、騎乗したまま、俺は振り返ると
「あぁ…悪いが、もうしばらく待ってくれ。」そう言って、また宿の方向へと視線を向けた。
(…マリー…)
*****
唇を食み、耳へと動いた悪戯な唇に、クスリと笑いながらマリーが目覚めたとき…もう俺は黒い軍服を身に纏っていた。
「…行くのね。」
掠れたマリーの声に、もう一度唇に口付けると
「あぁ、だがエフレンに戻る前に、ロレーヌ国が貿易を誤魔化し、わが国に与えた損害の件、そしてユベーロ伯爵の件をロレーヌ国王に片付けてさせてからだ。それはマリー、おまえが少しでも暮らしやすい環境を整えるためにやらねばならないことなんだ。」
「環境?」
「ロレーヌ国の財政は破綻寸前だ。貴族であるおまえでも生活は苦しい。エフレン国は資金援助を申し出るつもりだ、だが、ユベーロ伯爵のような輩を一掃してからだが、その辺は任せろ。なるべく早い段階でやる。それで少しは国の財政が潤い…おまえの生活も変わる。」
マリーの頬を指で撫で、唇へと移すと
「マリー、今のような働き方をしていたら、いずれ体を壊すぞ。金銭面が心配なのはわかるが、兄や祖母のことで、無理をして働いて体を壊しては、より二人を不幸にするぞ。いや違うなぁ…俺の為だ。俺の為に無理をしないでくれ。その為に俺は動いておく、日頃役に立たない王子の特権だが、今回は利用できそうなので、使わせて貰うつもりだ。」
マリーの右手に口付けを落とし、その手を握り締めた。
そのまま俺は動けなくなってしまった。どれくらい時間が経ったのだろうか、もう一度、強くマリーの手を握り、言葉を紡ごうとしたが、今まで饒舌だった口が、突然言葉を忘れかのように…いや、言わなくてはならない言葉を唇が拒絶した。
息を吐き…俺は
「…家まで送ろう。」
と、ようやく言いたくなかった言葉を口にした、だが、マリーの口から出た言葉は
「…ひとりで帰らせて」だった。
「…嫌だ。そんなことできない!」
あの時、マリーは思っていたのかもしれない。
俺に不安な気持ちを持たせたまま、行かせたくないと…。
だから 明るく別れようとしていたのかもしれない。
マリーは、俺の手に左手を重ね
「終わりではないんでしょう。だからここで、あなたにいってらっしゃいと言わせて、待ってるわ、花の妖精のようにあの湖であなたを。」
そう言って、にっこりを笑いながら
「それを楽しみにしたいから、会いに来ないでね。手紙も書かないでね。だって突然、あなたが私を迎えにきてくれたほうが、よりロマンチックで素敵だから…ねぇ、お願い。」
マリーは笑った…俺の為に、最高の微笑みを浮かべてくれた。
「マリー、おまえは…」と言って絶句したが…俺も口元に笑みを浮かべた。
マリーだって、寂しくて不安だろうに…明るく俺を送り出そうとしている。
だから…俺も…
そっと手を引き腕の中に囲うと強く抱きしめ、努めて明るい声で
「おまえは、俺に恋の手ほどきを教える言っていたなぁ。」
「ラファエル…?」
俺は腕の中からマリーを出すと、その顔を覗き込み
「…愛の名言を吐くロビン。兄から命を狙われながらも避暑地で女と遊ぶフィリップ。銀縁の眼鏡をかけ、ブリッジを中指一本で上げる仕草が……胡散臭いクラーク。」
「あっ…あはは…ごめんなさい。もう言わないで…。」
乾いた笑いを浮かべたマリーの額を軽く弾き
「そんな変な男に憧れるマリーに、俺はどれだけ振り回されたことか…。」
「だから、ごめんなさいって…。」
「ほとんどが、役に立ちそうもない恋の手ほどきだった。でも教えてもらったことがある。」
クスクスと笑い、またマリーを強く抱きしめ
「俺は…初恋の終わり方がわからず、いろんな人を苦しめていた。いや、それさえも気づいていなかった。それを教えてくれたのは…おまえだ。人として、王家の人間として、そして男として、愛する女をどうやって守り、そしてどうやって幸せに出来るかを…おまえは教えてくれた。」
「その教えの成果を必ず、おまえに見せてやる。だから待ってろ。」
マリーは声をつまらせ泣く事しかできなかった、そんなマリーを抱き寄せた俺は
「ここは、(ラファエル、愛してる)と言う場面だ。」
「えっ?」
ラファエルの胸元から、涙を零しながら顔を上げたマリーに
「王子からの恋の手ほどきだ。」
マリーは笑って
「誰よりも、この命よりも…あなたをお慕いしております。」
そう言って、俺の耳に軽くキスをすると…
「ラファエル愛してる。」と囁いた。
「敵う相手じゃないなぁ。」
そう、敵う相手じゃない、強くて、優しくて、可愛くて…こんな女に、敵うはずはない。そんなマリーを手放したくはないから、だから…俺は…。
俺は微笑みながら立ち上がり…言った。
「行ってくる。」
その顔は、きっと悲しい顔ではなかっただろう。自信に満ち溢れた男の顔だったと思う。
「はい。いってらっしゃい」
そう答えたマリーが、眩しそうに俺を見つめ、微笑んだから…きっとそうだ。
*****
宿で、きっと今頃泣いているであろうマリーに、俺は思いを馳せていたが、大きく頭を振り…
「今ではない。マリーのもとに戻るのは今ではない!今度会う時…それは妻として迎えに行く時だ。必ずおまえのもとに、俺は戻ってくる!!」
馬の横腹を左脚で軽く押さえつけ方向転換し、一目散にロレーヌ国の王宮へと、馬を走らせた。
二人の長い旅が始まった。
ひとりで行かなくてはならない長い旅だが…また会える、そう信じて…。