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ベットから、立ち上がる気配を感じ取ったマリーだったが…まだ、意識は甘い余韻の中に漂っていた。
大きな手がマリーの頬を撫で、まだ熱い唇が、額に…頬…そしてマリーの唇へと触れ、
「愛してる。」と言葉を残し、ベットから離れていった。
マリーはその言葉を耳にして、微笑むとゆっくりを眼を開き、愛する人が、湯浴みをするために、離れていく背中を見つめていたが、そっと体を起こし、ベットの背もたれに体を預け、胸に残る愛された跡を指で触れた。
ひとつ、ふたつ、みっつ…ななつ…と数えて、クスリと笑うと…自分の体を抱きしめ
「みんな、あの人が愛してくれた跡…」
そう言って、微笑んだつもりが、ひとしずく涙が…頬を伝わった。
「コラ!泣くなマリー。これからなんだから…これから始まるんだから…。」
語尾は掠れ、震えていたが、目尻に残った涙を擦ると大きく息を吐き、その手で今度は拳を作り、コツンと頭を叩いた。
「大丈夫。」
小さな声を紡いだ唇は、今度は大きく息を吸い呼吸を整えると、口角を上げ笑みをその口元に残し
「今度会うときは、あの人が驚くくらい素敵な女性になって待つの。絶対…なるんだから…。」
湯浴みに行ったラファエルに気づかれないように、小さな声で言った独り言だったが…
その声を扉の向こうで……ラファエルは聞いていた。
*****
ベットを出るとき、マリーがもう目覚めつつあったのは、気がついていた。
意識がはっきりしたとき、どんな可愛い声で、どんな可愛い事を言うのかを期待していた自分が恥ずかしい。
彼女の、マリーの覚悟がこんなに重いものだったことが、わからなかった俺は…甘い。
浮かれていた、幸せがもう手に入ったと思ってしまった俺は…本当に甘すぎる。
これでは彼女を失ってしまう。
足元が揺れ、思わず膝をついた。
これからなんだ。これからが、確たる幸せを得るために試練が始まるのに…。
何をやっているんだ、俺は…。
コンコン・・・
「ラファエル?大きな音がしたけど、どうかしたの?大丈夫?」
体を繋ぎ、そして魂を繋いだ愛する人は、優しくて…可愛くて…俺より強い人。
ならば俺も、その伴侶にふさわしい男にならなければ…俺が覚悟を持ってやらなければ…
彼女を失う。
させるか!彼女は俺の妻になる女だ!
ラファエルはノブに手をかけ、勢いよく飛び出すと、目の前に立ち尽くすマリーを抱きしめた。
*****
「…?!」
声が…出なかった。
突然飛び出してきて、私を抱きしめたラファエル。
強く抱きしめられ、愛された胸の蕾と厚く鍛えあがられた胸とが重なり、昨夜、愛された体が甘い余韻を思い出し…体が震えた。でもそれよりも、震えながら私を抱きしめるラファエルに切なさが溢れ…
(寵妃でもいいの、側にいられるのなら…)と言ってしまいそうだった。
離れたくない、でもいくらこの温もりを手放したくないからと言って、我慢できるはずはないのに…。一時は耐えられても、いつしか愛するこの人を、憎んでしまうかもしれない。この人に抱かれる正妃の不幸を願うかもしれない。
そうなってしまったら、私は私じゃなくなる。醜い心を持った私は…
この人に嫌われるかも知れない。
それだけは、それだけは嫌!
だから待つ…待ってる。それだけは嫌だから……待っている。
でも待つのは…本当は…辛い。
マリーはラファエルの背中に手を回し、しっかりとしがみつくと泣いた。
大きな声で泣いた。
すごく、寂しいと言って泣いた。
待っているから、せめて私のことを忘れないでと言って……泣いた。
溢れてくるマリーの寂しさを埋めるように、ラファエルはその小さな体を強く抱きしめ、腕の中で泣く愛する女の心を見て、唇を強く噛んだ。
(本当はこんなに不安なんだ。こんなに寂しいんだ。これが…マリーの本音なんだ。)
俺はどこかで見栄を張っていた。歳も離れ、まだ少女のマリーに、大人の男として余裕があると思われたかった。
なにをバカな事を思っていたんだろう…今更だろうに…
イラリア伯爵夫人との爛れた関係を知られ、あまつさえ…その関係を解く切っ掛けを作ってもらたんだぞ。その上、一度は逃げるように、マリーから離れたくせに…追いかけて、果たせない約束を告げ、愛を乞う自分だ。
大人の男の余裕……そんなものはない、初めからなかった。
離したくないから、縋るように彼女の腕をつかんだ俺のマリーへの愛は、カッコ悪くて、余裕どころか、いつも誰かにマリーを取られたくないと焦っている。
なにも見せず、なにも聞かせず、ただ、俺だけに縋るようにしたい。
激しくて抱いて、俺だけしかマリーの心も体も開かないようにしたい。
…これが俺の本音。俺の……マリーへの愛なんだ。
もう止められなかった。
堰を切ったように、激しい思いは言葉となって、
ラファエルの口から…迸った。(ほとばし)
「その体に焼き付けたい!」
マリーの瞳に写る自分は、苦しげに眉をしかめていた。
そう、苦しいんだ。こんな形でマリーを置いていくのが辛くて、寂しくて…不安なんだ。
だから本当は…
「おまえが、他の男の下に嫁ぐ事が出来ないような…俺の跡を焼き付けたい!」
一度はマリーが傷つかないように、離れて行こうとしたラファエルの心の奥には、本当はこんなに激しく、揺れる気持ちがあったことに…マリーは胸が震えた。
「嬉しい。傷つけて私を…あなたを忘れることができないように私を傷つけて!!」
崩れるように二人は、昨夜の名残を残すシーツへと倒れこみ…
マリーはベットに貼り付けられたように、両腕をラファエルの左手で押さえられ、右手で頤を上げられた。
マリーを見つめるラファエルの瞳は熱く
「おまえは俺のものだ!その体、誰にも触らせるな!その心…誰にも…」
そう言って言葉がつまった。
…心をやるなとは言えなかった。
心をやらないでくれと…乞う気持ちだったからだ、だがそんな迷いをマリーは…
「誰にもやらないわ。」
「…マリー。」
「私を傷つける事ができるのはあなただけ、そしてその傷を癒す事ができるもあなただけ…だから…」
そう言って、今度はマリーが言葉に詰まった。
待っているとは言える、でも私の元に戻ってきてと口にしていいのか…マリーは迷った。
そんな迷いを、今度はラファエルが…
「だから、俺を忘れないように、俺はおまえを傷つける。そしておまえを癒しに必ず戻ってくる!」
それは昨夜のような穏やかな愛の営ではなかった。
ラファエルを知っている人なら…その荒々しさに驚いたであろう。
マリーを知っている人なら…艶やかな姿態に驚いたであろう。
体は快楽より痛みのほうが強かった。
だが、このときの二人には必要な事だった。
これから先、歩んでいかねばならない道は決して安穏ではないだろう。いつたどり着くかわからない、途中で大きな石に阻まれ、通れないかもしれない。
だが、またこの地に、愛する人の元に戻るためには、お互いの体に…心に…道標と成り得るものが必要だったからだ。
荒い息遣いの中でラファエルは
「マリー…俺にも…傷をつけろ。お…まえしか、癒せない傷を…。」
マリーはラファエルの声に…落ちて行きそうだった意識を引き戻し、ラファエルの言葉が嬉しくて口元に笑みを浮かべた。
それは聖母のような暖かい笑みだった、すべてを赦し、受け入れてくれる微笑だった。
「…バカ…こんなときに…そん…な微笑は…ないだろう。」
ラファエルはそう言うと、マリーの唇を覆った。