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午前6時。
玄関の扉が閉まる音を聞いたケントは、大きく息を吐くと
「やっぱり行ったのか…。」と苦しげに呟き、マリーが行くであろう場所へと、顔を向けた。
*****
遠くからでもいい…ラファエル王子の姿を見たい。
二度と会えない人だから…。
もう一度だけこの眼に焼きつけて、遠くからでもいいから、さよならを言いたい。
だが宿の前にして……下を向いた。
頑丈に作られ、門番が立つこの門は、ただこの宿に入れない、というだけではないことに気がついた。これは、私とラファエル王子との世界を区別する門だと…。会うどころか、顔を見ることだって叶わないんだ。ラファエル王子が会いたいと思ってくれない限り、この門は開かない。
今更だ。今更、気づくなんて…
簡単に会えるはずがない人と会えていたのは、ラファエル王から、手を差し伸べていたからなんだ。
マリーは、宿に背を向け、歩き出した。
角を曲がろうとしたときだった、門が開く音がして、黒い士官用の礼装に、肩から斜めに掛けたブルーのサッシュと、片肩から前部にかけて吊るされる金糸の飾り紐をつけたラファエルが、従者に馬を引かせゲートから出てきた。白金の髪をいつも無造作に結んでいたが、今日はきちんと撫でつけ、従者と厳しい顔で、話しながら出てくるラファエルは、マリーの知らない顔だった。
「やっぱり…違う世界の人なんだ。でも…」
マリーはゆっくりとラファエルに向かって、歩き出した。
*****
昨夜はとうとう眠れぬまま、一夜を過ごしてしまった俺は、夜が明けていくロレーヌ国の町並みをテラスからぼんやりと見ていた。
俺は、どうなって行くのだろうか。
イラリアとの関係を続けながら、他の女性ともベットを共にすることに、だんだんと後ろめたさも感じなくなったあの頃に…またそのうちなって行くのだろうか。
心はなにも感じないまま、そのひと時だけ感じる体の快楽に、身を委ねる生活にまたなって行くのだろうか。
「人としては……おしまいだなぁ。」
そう口にすると、美しい夜明けから、己の醜さを恥じるように…目を背けると、俺は、外相が残していった従者を呼び、馬の用意をさせた。
だが険しい俺の表情を見て、従者は心配そうに何度も
「殿下…今日は止められたほうが」と言ったが、俺は馬の鼻を撫でながら、頭を横に振り、なにも言わない俺に、従者はあきらめたように手綱を俺に渡した…その時だった。
「今から…王宮に行くの?」
いつもなら、その声は俺の耳に心地よく聞こえるのだが…今は苦しかった。会っては、未練が残るからと思って、黙って行くつもりだったのに、突然現れた彼女に、自分をどう繕っていいのかわからず…下を向いたまま「…あぁ…」としか言えなかった。
そんな俺の様子を、彼女はどう思っただろうか…。だが声だけは明るく聞こえてきた。
「お礼を言っておきたかったの。二度も助けてくれてありがとう。」
「あれは…君が俺の事で巻き込まれた事だ。礼なんて…必要ない。」
うまく彼女と話せない自分に唇を噛むと、下を向いたまま…彼女の白い小さな靴を見ていた。
「ラファエル殿下。」
彼女にそう言われて、俺はハッとして顔を上げた。
彼女が両手でスカートの裾をつまむと、軽くスカートを持ち上げ、片足を斜め後ろの内側に引き、もう片方の足の膝を軽く曲げ、カーテシーと呼ばれる貴族の女性が、高位の貴族や、王族に行なうお辞儀をした。
彼女から俺との間に線を引いた事を、見せられた気がして、俺の顔が歪んだ。
自分もそのつもりだったくせに、俺は彼女のそのお辞儀から目を背け、そして背までも背けた。
「…悪いが…もう時間がないんだ。」
「お時間を取らせて申し訳ありません。」
「…いや、わざわざ来てくれたのに……すまない。」
「いいえ、私も人と…会う約束がありましたので…」
「人と会う約束…?」
「はい、前にお話していたクラークが待っているので…私も失礼致します。」
彼女の足音が…
ちょっとすり足気味に歩く足音が…離れていくのがわかった。
【愛しているから壊したい】のクラークか…また、そんな嘘を…
後ろから聞こえて来た足音が、止まった。
彼女が、見ている。
彼女が小さな声で、「・・・」言っているのが聞こえ、ハッとして俺は振り返った。
でも…そこにはもう彼女はいなかった。
*****
最後ぐらいは、明るく別れたかったけど、それさえも…ダメなの?
握り締めた手が冷たくなっていくようだった。
目頭が熱くなって、私は一度目を瞑り、涙を堪え、心の中で…
もう…夢から王子様は覚めてしまったんだ。
もう…終わったんだと繰り返し、俯く王子様を見つめた。
でも最後まで…私は演じたい。
こんなことは慣れていると、涙なんか見せて縋れば、迷惑なだけ…
頑張って、遊びなれたいい女で…さよならするんだ。
「ラファエル殿下。」
私は両手でスカートの裾をつまみ、軽くスカートを持ち上げ、片足を斜め後ろの内側に引き、もう片方の足の膝を軽く曲げ、高位の貴族や、王族に行なうお辞儀をした。
「…悪いが…もう時間がないんだ。」
(もう…話したくもないんだ。)
「…いや、わざわざ来てくれたのに……すまない。」
(わざわざなんかじゃないの。会いたかったの。)
「人と会う約束…?」
「はい、前にお話していたクラークが待っているので…私も失礼致します。」
(遊びなれたいい女で…さよならしたいから…)
だから、私は泣かないで、カッコ良く歩き出した。
私は遊びなれたいい女だもん。
でも…
ここまで離れれば聞こえないだろうから…
足を止め、振り返ると、まだ動かない大きな背中に、小さく手を振り、
そして…私は…遊びなれた女から、ただあなたを好きな女に戻り
「二度も助けてくれてありがとう…夢をありがとう。それから…それからね。大好きだったの。本当に大好きだったの。………さよなら。」
そう言葉にして、走った。
走らないと、泣きそうだったから…
走らないと、連れて行って、傍にいたいのと言いそうだったから…。




