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椅子に座り込み、俯いたまま動かないラファエルに、ケントは頭を横に振りながら、やっぱり…どうにもならないと呟いた。
愛しているなら、奪っていけと言うのは簡単だ。でも、その為にこの王子様が失う物は大きい。王家を捨てるということは、国を捨てると言うことだから。
マリー……もういいよなぁ。
悩んでくれてるよ。おまえを愛しているから、悩んでいてくれるんだ。
だから…もう、おまえもあきらめろ。王子様が好きなら、もう…あきらめろ。
でも、結ばれる事が出来ないのなら…これでもう会う事もないのなら
せめて、本の世界で知った恋愛の真似事で、遊びなれた女を演じたマリーは、本当はラファエル王子が思うよりもっと、生真面目で、苦労を背負ってばかりで、でもくじけない心と優しい心を持つ女だったと覚えていて欲しい。
だから…
ケントは、乾いた唇を舐め
「本当のマリーを見て頂けませんか?」と、声をかけた。
ケントの声に、ラファエルは俯いていた顔を上げた。
「本当の…?」
「はい…マリーはラファエル王子に、遊びなれた女のように振舞っていたのでしょう。」
顔を歪めたラファエルの耳に、あの湖でマリーが言った言葉が聞こえた。
『…このキスは…もうお茶だけの関係の…仮契約は終わって…本契約になったってこと?』
ショックだった……。あの時、俺は…
彼女をこんなにも欲しているのに、彼女にとって自分の存在が、特別じゃない事が…、他の男と彼女を共有しなくてはならないのかと思う…苦しかったんだ。
「それは…」と言うケントの声に、ラファエルはハッとしてケントを見た。
「俺のせいなんです。」
ケントは、ラファエルの視線から逃れるように下を向き
「王子の好みの女性は、遊び慣れた艶っぽい女性らしい。かなりの女性との噂があるが、どうやら後腐れないのが、良いってことだと思われる。なぜなら名前が上がった女性達は、一様に未亡人や人妻が多くそれも、一夜限り…と言うのが、俺が調べたラファエル王子でした。」
ラファエルは、苦笑しながら…
「まんざら…嘘じゃない。」と口にし立ち上がると、ケントに背を向け窓を開けた、風が部屋の隅々まで入ってきて、重苦しい空気を入れ変えようとしていたが…まだその勢いでは無理だった。
「マリーは、あなたを愛しています。」
ラファエルの背中が、震えたが…
ケントへと振り向く事も、声を発する事もせず、それはまるで聞こえていないかのようだったが…外を見ていたその顔は歪んでいた。
苦しそうに…そして…切なそうに…
ケントは、ラファエルの背中に
「マリーは…あなたとの未来はないと思っています。だから、ひとときでもあなたに愛されたいと願って、本当は、あなたは遊びなれた女を好んでいたわけではないのに…あの調査書を見て、あなたの好む女を演じていたのだと思います。あなたを愛しているマリーは、本当は遊びなれた女のつれない駆け引きなどできない。ただ純粋にあなたを愛している。だから知っていて欲しいんです。結ばれる事が出来ないのなら、せめて覚えていて欲しいんです。マリーがあなたをどんなに愛していたか…」
ラファエルは背中を向けたまま…ケントの言葉に答えなかった。
今更…何を言ってもどうにもならない。
彼女は俺との未来はないと思ったから、遊びなれた女を演じていた…それは確かだ。
俺には彼女が望む未来は、やりたくても、やることはできない。
それなら、もう何を言っても、なにをしても……虚しいだけだ。
遠くで15時の鐘が鳴り響き、その音が窓を開けた部屋の中までも、ゴ~ンゴ~ンと音を響かせた。ラファエルは、その音を鳴らす塔へと目を向け、ケントの声は聞こえていないかように、ぼんやりと見ている様子だったが、窓枠を握り締める手には力が入っていた。
ケントは、窓枠を握り締めるラファエルの手を見ながら…
たくさんの女性と付き合っていたと調査書に書いてあったが、この人も、マリー同様…恋愛下手だと思ったその時だった、コンコンと扉を叩く音が、鐘の音に交じりながら聞こえてきた。
*****
その頃マリーは、アドニスの花屋にいた。すぐに帰るつもりだったが、マリーの変わりに入る予定だった女性が急に入れなり、バタバタとしているアドニスに対して手伝いますと言うのは、ごく自然のことだった。
「マリーちゃん、悪いなぁ。」
「いいんですよ。もともと、私が休みたいと言ったことが切っ掛けですもの。手が空いている時ぐらいは、寧ろやらせて頂きたいと思っていたくらいです。」
そう言って、マリーは笑ったが、内心はちょっと困っていた。
17時までに…終わるかなぁ。
マリーは、ラファエルとの契約はまだ継続中だと思いたくて、18時までにラファエルのところに行こうと思っていたのだが、忙しそうにしているアドニスに、休みだからと言って、知らん振りはできなかった。
いや、それだけではなかった。恐かったのだ、自分の言った一言で、ラファエルの態度が変わったことが…。【もういい。】と言われるのではないかと恐くて、だから少しでも、日常をやることで、夢の世界から一時離れ、心を落ち着けたかったのもあった。
はぁ~と溜め息をつき、また落ち込みそうになった時だった。
ガタン!ガタン!ガラガラ・・・・
ぼんやりしているマリーの後ろで、すごい音がして、足元にバケツが転がってきた。
「…バケツ?」とマリーは口にしながら、後ろを振り返ると
「…どうして…ここに?」と言いながら、バケツを蹴った人物へと首を傾げた。
その人物は、胡散くさい笑みを浮かべながら
「いや、昨夜は失礼した。アデラ殿の孫の…確かマリーだったなぁ。ちょっと付き合って頂きたい。」
そう言って、笑いながら差し出した手には…親指の付け根に歯形があった。マリーは息を飲み、強い視線を向け、(あなただったんですか)と口にしようとしたが、突然ふさがれたガーゼのツーンとした臭いが、マリーの口を閉ざし、ゆっくりと倒れていくように、体の力を奪っていった。
男は楽しそうに、顔を綻ばせると
「クロロホルムと言うのは、便利なものだなぁ。」と、男はマリーの後ろに立つ部下に、にやりと笑った。




