30
とうとう、ラファエル王子とは、あれから話ができないまま、花祭りの会場から私は病院へと連れていかれ、家に戻ってきたのは翌朝だった。
体調はもうすっかり良かったのだが、あの口付けのことで頭が…ううん胸がいっぱいで、食事も喉を通らなくて、どうやら、それがおばあさまから見たら、体調が悪そうに見えたのだろう。ベットで横になってなさいと言われ、眠れないまま…天井のシミをぼんやり見つめ、またあのキスの事を考えていた。
あのキスの意味はなんだったのだろう?
寝返りをうって、窓ガラスから見える、隣の屋敷の庭を見ながら…ふと思った。
あなたのたった一人の女性にしてと言ってたわけじゃないのに…
女性のひとりの中に加えてと言ったつもりだったのに…
どうして…あんなに青褪めて、頭を横に振って、私を拒絶したんだろう。
女性のひとりの中に加えるつもりで、キスをしたんじゃないの?
あのキスの意味はなんだったの。
気づかれた…?
私の気持ちが気づかれたんだろうか?
だから…面倒になりそうなので…拒絶されたんだろうか?
ゴロリと体を動かし、天井をもう一度眺めたら…霞んで来た。
右手の甲を目の上に覆い被せ
「バカだよね。私ったら…なにやってんだか…あの人に買ってもらったガラスの花の髪飾りも湖に無くしてしまったし…ほんとなにをやってるんだか…。」
両手で顔を覆うと、指の隙間から涙が零れ、枕まで濡らしていったが…涙は止まらなかった。
*****
コンコン・・・
扉を叩く音で、マリーは慌ててベットカバーで、顔を拭うと心配させないように、少しでもと、元気よく「はい。」と返事をした。
「マリー、俺だ。」
「お兄ちゃん?」
「あぁ…ちょっといいか?いや…ここでいいや。」
そう言って、ケントはマリーの部屋の扉を開けることなく、その前で座り込んだ。
マリーの体や、そして心を気遣う気持ちはもちろんだが…今から自分がラファエル王子に会って、すべてを話し、マリーから離れて欲しいと頼む事への罪悪感から、マリーの顔を見る勇気がなかったのが大きかったからでもあった。
ケントは大きく深呼吸をすると…
「今日は花屋と居酒屋のバイトは、どうなっているんだ?休んだほうが良いと思うんだけど…良かったら、俺が連絡しておこうか?」
扉を隔てた声だったが…ケントの声はマリーの耳にはっきりと聞こえて来た。
「アドニスさんのところは、週2日にして貰ってて、今日は休みなんだけど、ちょっと顔を出しておきたいと思っているの。先日、ちょっとラファエル王子から、アドニスさん、誤解されてビビッていたから、謝りたいし…。」
ケントは、呆れたように溜め息をつき、マリーには聞こえない小さな声で…
「あの王子様もただの男ってことか…」
そう呟いたケントの耳に、マリーの話の続きが聞こえて来た。
「居酒屋のバイトは行くつもり。花屋より、居酒屋のほうが、なかなか働く人が見つからないみたいだもの。」
「体は大丈夫なのか?」
「うん、大丈夫よ。」
ケントはマリーとの話の流れに乗って、本当は一番聞きたい事を…聞いた。
「なぁ…マリー、夢はまだ見ているのか?それとも…もう夢から覚めたのか?」
部屋の中から、物が落ちる音がした。
マリーの動揺が扉を隔ててもわかり、ケントは静かに目を閉じ、
「マリー、ごめんな。」と呟くように言うと、立ち上がり、扉に額をつけ…
もう一度
「…マリー、ごめんな。」と言って、ケントは階段を降りていった。
階段を下りていくケントの足音に、マリーは慌ててベットから下り扉を開け、階段を下りていくケントの後姿に声をかけようとしたが、なんて言ったら良いのかわからず、兄の後ろ姿を見つめ、遠ざかっていく足音を聞く事しかできなかった。
*****
「ここって、ほんと入りづらい。」
と宿の前で立って、ケントは呟くと…先日自分を追い出した屈強な男に、ヘラリと笑って見せた。
ケントの引きつった笑みに、何の感情も表すことなく、
屈強な男は「聞いております。」と言うと、ゲートを開けた。
ケントは、ゴクンと唾を飲みこむと
「ど、どうも…」と言って、小走りに宿の受付へと行こうとしていたが、一歩進む度に迷いが出てきて、とうとう足が止まり、そして耳に…祖母アデラの声が聞こえてきた。
『マリーは寵妃には向かないわね。でも、ここで橋を渡って、景色を見てから考えても良いと思うの。諦めるとしても、景色を見ずに諦めたら…あれほどの人を、簡単には忘れられないわ。一生、あの王子様を引きずって生きていくことになるわ。同じ傷つくなら、橋を渡って、景色を見て考えたほうが、後悔しないと思うんだけど…』
ケントは、頭を横に振りながら
「いや…ばあさま。やっぱり違うよ。」そう言って、王子がいるであろう部屋をケントは見上げ
「前回はユベーロ伯爵の力で、この宿に入れた。本来、貴族の端くれの俺の家のような者は入れない。それだけ守られている人物なんだ。やっぱり…ラファエル王子、あんたは違う世界の人なんだなぁ。
俺だって…あんたがマリーだけを娶ってくれるなら、マリーだけを愛せる立場なら大賛成さ。でも…無理だろう。あんたがいる世界は、この宿と一緒だ。俺達みたいな貴族の端くれには、近づけない世界だ。
第二王子とはいえ、正妃は政略結婚のために空けておく席。寵妃だって、ひとりってことはないよな。なら、寵妃にしかなれないマリーは、もし後宮に連れて行かれたら、いつ来るかわからないあんたを待つのか?!そんなマリーを俺は見たくない!マリーには…そんな生活できるはずはないよ…。」
そう言って、零れてくる涙を拭うと
「そう言ってやるんだ。だから…マリーには近づかないでくれと言ってやるんだ。」
覚悟を決め、歩き出したケントには、もう迷いはなかった。
*****
昨夜からラファエルは、ケントの言葉が頭から離れなくて、繰り返しその言葉を口にしていた。
「妹…。ケリーはアデラは妹だと言った。だが…」
そう言って、頭を振った。初めて会ったとき、ふたりはこの宿にいたんだ…ここは兄妹で、出入りするところではない。
だが、ケリーと言う男は、妹だと言った。【妹を助けて頂きありがとうございます。】と
確かに…彼女には不自然なところはあるが、付き合っている男の話が淀みなく出てくる様子は、俺の周りにいる遊びなれた女のようだった。
だが…時折、少女のように純粋な顔を見せる。
その顔が…嘘だとは思えなくて、作ったものだとは思えなくて……俺の心を振り回す。
初めて会ったとき、面白いと思った。こんな女なら、一夜とは言わず、寵妃として側に置くこともやぶさかではないとさえ思った。抱いた女でさえ、覚えていない俺が、ただ通りすがりに近いような女を覚えていたと言うことは……今考えると一目ぼれだったのか。
ラファエルは頭を抱え、うな垂れるように下を向き…
あの湖で感じたあの気持ちは…間違いなく彼女を愛している。
寵妃と言う形で、彼女を手にいれることは、俺の立場なら簡単だ。
だが、そういう形で手に入れて…本当にいいのかと俺の感が言っている。
それがわからない。なぜ…そう思うのか…
コンコン・・・
答えを…俺の迷う心に、答えを持つ男がやって来た。