20
バイト先の居酒屋は花祭りの人出が流れてきて、いつもより厨房はバタバタしていたが、午前1時を回る頃には、ようやく一息ついて、私は厨房の片隅で、ライナスさんが入れてくれたお茶を飲んでいたが、白いカップを持つ手が荒れていることに目がいって、お茶を飲む事も忘れ、ぼんやりと荒れた手を見た。
気になんか…、そう気になんかしていられない。花屋といい、居酒屋の皿洗いといい、手の荒れなんか気にしていたら仕事にはならない。
「手が荒れるから嫌だと言って、おばちゃん達もなかなか来なくて、マリーちゃんには感謝してるよ。」
とライナスさんは言ってくれるが、ただ私はなにも考えずに皿を洗う仕事は好きなだけで、料理はできない、接客はやらないという条件をのんでくれたライナスさんに、むしろ私のほうが感謝してる。だから、手の荒れなど気にもしていなかったが…この手の荒れを見て、顔を歪ませた人がいた…お兄ちゃんだ。
1年ほど前、バイトから帰った私に、お兄ちゃんが黙って差し出してくれたのが絹の手袋だった。貧乏子爵家の娘に、絹の手袋なんて贅沢だ。おまけにこの手袋に合うドレスもないのにと、文句をいうつもりだったが、この手袋を差し出したお兄ちゃんの顔を見て、言葉が出てこなくて震えながら受け取った。なぜなら、お兄ちゃんの眼は、そして鼻は、真っ赤でさっきまで泣いていましたと言っていったからだ。我慢していたのだろう、私が手袋を受け取ると「俺が…ダメな男だから…おまえの手を、年頃の娘の手を荒れさせて…俺はおまえに苦労ばかりさせて」と言って、オイオイといい歳をして泣き出した。絶対儲かるからと言われ、断りきれずギャンブルに手を出すダメな兄だが、結構優しいところもある。
そんなことを思い出し笑ったマリーの耳に、店内から「ありがとうございました。」と言う声が聞こえてきた。
「これで、最後かなぁ。よし、もうひとがんばり!」と言って、両頬を叩き立ち上がった時だった。チクッと指先に痛みが走り、ハッとして指先をみると、どうやら、三角巾からはみ出した髪に、指先のささくれが引っかかったようで、血が少し滲んでいた。
それにしても、色気のない手だと苦笑すると、この手に、口付けた王子様を思い出してしまった。手の甲ではなくて、手のひらに口付けたから、気づかなかったのかなぁ…。
どう見たって遊びなれた女性の手じゃないわね。この手は労働者の手だ。
またぼんやり、指先を見ていたら…店内から声が聞こえてきた。
「マリーちゃん!頼むよ。団体さんが帰ったから、大変だぞ。」
「はーい!」
仕方ない。うん、そんなこと考えても仕方ない。
マリーは、もう一度「はーい!」と返事をすると、流し場に急いだ。
*****
ようやく仕事も終わり、帰ろうとする背中に、ライナスさんの心配そうな声が呼び止めた。
「マリーちゃんのお兄さんが、迎えに来ているみたいなんだが、なんだか様子が変なんだ。」
「お兄ちゃんがですか?」
「あぁ、いつもにこにこしている方が、なんだか、思いつめているみたいで…」
「…そうですか…すみません。」
「いや、とんでもない。子爵様やその妹君に気安く話しかけて礼儀をしらねぇ、田舎者の俺にも、嫌な顔をしないで、接してくださる子爵様やマリーちゃんには、ありがたいよ。早く行ってやりなよ。」
「はい、お疲れ様でした。」
「おぅ、お疲れさん、子爵様によろしくな。」
急いで外に出ると、店の壁に凭れるお兄ちゃんがいた。いつもとは違うお兄ちゃんに、怪訝な面持ちで近づくと
「お兄ちゃん?」と呼んだ。
なにも言わない、いつもとは違うお兄ちゃんに、私は不安になって、そっとお兄ちゃんの腕を握って顔を見ると、その顔には優しげに見つめる瞳と、微笑んだ口元があった。
私は戸惑うように、
「お兄ちゃん?」と呼ぶと、お兄ちゃんは、そっと私の手に自分の手を重ね。
「手荒れは少しはマシになったが、やはり、荒れてるなぁ。」
そう言って数度、私の手を労わる様に撫でると、突然言った。
「…マリー…王子様には、もう近づくな。」
「で、でも!王子様のスキャンダル…「探す気はないんだろう?」」
お兄ちゃんの言葉に…違うとは言えなかった。
「なぁ、ロレーヌ国より大きな国の第二王子、剣の腕も一流だという噂だ。おまけにあの整った容姿、女の噂も半端じゃない。奇蹟なんだぞ。今、お忍びだからと言っても、俺たちが近づける方じゃないんだ。奇蹟なんだ。」
そう言って、私の荒れた手を握り
「あの王子様が好きになったのか?でも、お話みたいにふたりは幸せに暮らしましたとエンドマークはでないぞ。」
お兄ちゃんの言葉に、私は微笑んだ…わかってるよ、お兄ちゃん。
「お話みたいには、ならないと思っているわ。貧乏子爵の妹どころか、遊び慣れた、そう…まるで娼婦のような女性を演じているんだもん。どう転んだって幸せな結末はないわ。でも、夢を見たいの。現実の世界の厳しさを虚しさを忘れて、王子様という手の届かない人と…お話の世界に入りたい。お兄ちゃん…ごめん。もう少し、夢を見させて、どうせ夢なんだから、どんな結末を迎えても後悔しないから、お願い!夢を見させて…。」
私の瞳から、ポロポロと零れ落ちる涙をお兄ちゃんは拭って
「その夢は現実の世界に傷を残す、悪夢に近いものだろう。それでも…なのか?それでも、見たい夢なのか?!」
私は静かに頷いた瞬間、お兄ちゃんは私を抱きしめ
「…俺は!俺は!おまえが不幸になるのは嫌だ!」と顔を歪め泣き出した。
私はお兄ちゃんの腕の中で
「手の荒れを見たときも、おにいちゃんは泣いてくれたよね。お兄ちゃんが買ってくれた絹の手袋も、その贅沢さと手荒れを隠す事で、現実の世界を忘れさせてくれた。だから…今、こうやって生きて行ける。この片思いも…私の生きる力にまたなってくれるはず。だからお願い。このまま、私が思うようにやらせて。」
「…マリー…。」
「片思いだもん。ラファエル王子があの宿にいる間だけ、王子様がまた華やかな世界に戻るまでの間だけ、夢を…私も王子様も夢を見る、そんな関係でいいの。」
「…俺は!…」
くそっ!やっぱり、マリーには言えない。
言ってしまうと夢は夢でなくなり、欲がでるだろう。
欲が出ると…マリーもラファエル王子も不幸だ。
マリー悪いが俺は…その夢が早く覚めるように動くつもりだ。
王子はおまえを気にかけているが、王子ならいずれ権力がある貴族か、あるいは他国からの姫を貰うだろう。政略結婚は免れない。だから絶対に正妃にはなれない。いや側妃だってこの身分では無理だ。なら…寵妃しかない。しっかりしているようだが、恋に夢を持つおまえが、好きな人が自分以外の女性と結婚し、暮らすさまを身近で見ることなどできまい。ましてや他の女性との間に子供などできたら…おまえはどうなってしまうか心配だ。
今の生活より贅沢はできるだろうが…心は今より不幸になっていくだろう。
花祭りを最後に…
せめて、花祭りを最後に…幸せな夢で終わらせたい。
だから…
「マリー、花祭りの最終日は、みんなが王子や花の妖精に扮装するんだろう。二人で行ったらどうだ?王子様がたくさんいる中なら、あのキラキラ王子だって、少しは目立たないかもしれないしなぁ。夢を作って来い。」
マリーは涙を零し、微笑みながら、何度も頷き「ありがとう」と口にしていた。
ケントは、マリーに素敵な思い出だけを残させて、終わりにさせたかった為に、花祭りの最終日に、王子と一緒に行って来いと言ったつもりだったが…
だがケントはすっかり、忘れていた。ユベーロ伯爵から…
「ラファエル王子を花祭りの最終日に、連れてくるように」と言われたことを…




