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6日目の夕方。
私は迷いながら、家を出たが、公園まで来て足が止まった。
いつもは静かな公園に、たくさんの人の声が聞こえていたからだった。
「そうか…明日から花祭りなんだ。」
この公園の中心には、その昔、王家の離宮があり、その側には面積が0.04k㎡ 周囲長0.8kmの湖と言うのには、かなり小さなものがある。そこは、この公園の中でも一番親しまれている場所で、それはこの花祭りがあったからだった。
春の訪れを祝う花祭りは、誰が言ったのやら、またの名を恋祭りと言われ、特に最終日の明日は、女性は花の妖精に扮し、男性は王子に扮して、好きな人に告白するという。そういうお祭りだから、祭り後の結婚は多い。そうめちゃくちゃ多い。お店だって、最終日だけは、どこの店も休みだ。
でも私にとっての花祭りは、バイトが休みというだけで…
告白する、あるいはされることもないので、家で日頃の睡眠不足を補う日が、ここ数年の私の花祭り最終日。
恋祭りとも、言われるようになったのは…20年程前。
それは、ある御伽噺からだった。
それは昔…
春の訪れを告げる為に、花の妖精がロレーヌ国のこの森を通った時、春の嵐に遭い、この湖に落ちたという昔話。その時、妖精を助けたのは、王家の離宮に来ていた王子。花の妖精と王子は、眼があった瞬間、恋に落ちたと言う。だが、お互いが気持ちを言えないまま三つの季節を過ごし、花の妖精はまた、春の訪れを告げる為に旅立たねばならなかった。
別れの日、花の妖精は王子には直接別れを言えないまま、まだ夜が明けない湖に来て、隠していた羽を広げ、飛び立つ瞬間だった。その時…
『行くな。人でも妖精でも関係ない。おまえだから…おまえだから愛してるんだ。 すべてを捨てても、おまえと一緒にいたいんだ…俺を置いて行くな。』と、王子様は花の妖精に懇願したと言う。
すべてを捨てても、おまえと一緒にいたい…か。
ラファエル王子は、昨日…伯爵夫人にそう言ったんだろうか?
すべてを捨てると…
もし…ラファエル王子がそう言っていたら…宿には行けない。
『明日、待っている。』って、言われたけど、行ってみたら、あのふたりがよりを戻していた…なんて所にノコノコいくのも…空気が読めないというか…間抜けだもの。
でもなぜ、あんな事をラファエル王子は言ったんだろう?
…どうして?わからない。わからないよ…。
じゃぁ、私はなぜ…ラファエル王子に会いに行こうとしているんだろう?
ラファエル王子と伯爵夫人のスキャンダルを、私はそれを誰にも言うつもりはないし、もう、ラファエル王子のスキャンダルを探る気持ちもない。だから…会う必要もなくなったのに…なぜ?
ふたりが心も結ばれたかも知れないと思いながら…なぜ?
『明日も待ってる。』と言うラファエル王子の言葉に頷いたのは…なぜ?
なぜ?頷いたんだろう。
それは…会いたかったから…会いたいと思ったから…
ただ、会いたい。それだけ…だって、それだけしか望めないから…
だって…だって!だってそれ以上望んだとしても…叶うわけないから。
このささくれた指先が、赤いマニキュアが塗られた指先を、ラファエル王子の心から、一瞬だって忘れさせる事などできるはずはないから。この指先じゃ…できるはずないから。
だから…せめて…会いたい。会いたいの。
苦しいな…どうして、こんなに苦しくて、そして、悲しいんだろう。
これって…なに?
これって…これって…
…好き…ってこと?
でも恋って…幸せだって、本は言っていたのに。その人を思うだけで、幸せだって…恋って、恋をするって、幸せなことばかりじゃないの?
待ってなんかいないかもしれない。
でも、でも万が一、ラファエル王子が私を待っていたら…
バックからくしゃくしゃに丸めたア・ラ・カンパーニュの袋を出し、ささくれた指先でそっと撫でながら…私は決めた。
行こう。
王子様のところに…だって会いたい。
例え、お茶を飲むだけの関係でも、あの少年のような王子様に会いたい。
ただ会いたいから、それ以上は望まない。じゃないか……望めないんだ。
でも…宿に近づくに連れ、最初は早歩きだった足は、今、牛歩のようになり…心が弱くなり、気分も重くなっていった。
やっぱり…恐い。うまく仲直りで出来たカップルの間に、顔を出すのは、例え、舞台の中央に出ることがないサブキャラだって…惨めすぎる。
もう!~私って、なにを言っているの!
初めから、サブキャラだって…わかっているのに、何を今更、びびっているの!
サブキャラはサブキャラらしく、主人公の幸せを片隅で祈るものだ!
行こう。会えればいい。そう会ってお茶とお菓子で盛り上がるんだ。
もうこの角を曲がればあの宿。
でも 一歩が遠かった。ゆっくりと角を曲がり…
何度も、何度も、眼を擦った。擦ったけど…夢じゃなかった。
「もう充分幸せ。もうこれだけで私は…」
と口にし、私は走り出していた。
*****
その宿は、丘の上に佇む白亜の城のようだった。
大きな門が中にいるカップルの秘密を守るかの様に、立ち塞がり、近くを通る人にさえにも、威嚇する様だったが、例え威嚇されても、その建物の美しさは、通り過ぎる人達の足や、視線さえも止めるほどだった。今日も通り過ぎる人達の視線は、白亜の邸宅へと向いていたが、今日は少し違った。
その視線が、門の前に立つ男性へと注がれていたからだ。
白金の髪を緩く結び、白いシャツと黒いパンツ姿のその人は、通り過ぎる人達を見つめては、溜息を吐き
「来るだろうか…。でもあんなところを見られたんだ。もう来ないかも…」
そう言葉にすると、ますます頭が下がり、とうとう視線は自分の足元を見てばかりになってしまっていた。
黒い自分の乗馬靴をぼんやり見ていたら、視線の端に、白い小さな靴が入って来て、その靴の持ち主が少し掠れ気味な声で
「…いくらカッコ良くても、溜め息をつき、下を向いた姿は頂けませんことよ。」
驚いて顔を上げた俺に、緑の瞳はいたずらぽっく笑った。
「根暗で、だらしない…これが本当の俺の姿なんだ。」
俺の口元は緩み、きっと笑みを作っていただろう。
「いい男が、そんなことを言っても…なんだか笑えない。寧ろむかつく。」
彼女は無理矢理、ムッとした顔を作って、俺を睨んだが、その顔が可愛くて、そして、たまらなく愛おしく思えた。
お互い言わなくてはならないことが、そして聞きたい事があるのに…
今は、会えた事が嬉しかった。