13
薄暗くなった廊下で、その姿を見たとき、心臓が大きな音をたてて、私の足を止めた。
それは…悲しくて…寂しくて…まるで心が迷子になっているかのような女性の姿に見えたから…。
その女性は、顔をすっぼり覆う長めのベールの付いたトークハットを被り、扉を叩くのを迷っているのだろう、手のひらをギュッと握ったまま、動けないようだった。
「扉の前に、人が…」と私が言う前に、ラファエル王子は驚いたように、何か言葉を発すると、その女性へと走りより、まるでその女性を私から隠すように、女性と私の間に立ったように思えた。
「ど…う……して?」
「ご…めんな…い。わすれ…しまって…」
「ど…に…」
「ベット…」
途切れ途切れに、耳に入ってくる言葉で、その内容は、なんとなくわかってしまった。ベットに忘れ物をしたと言っているようだった。
あぁ…この人なんだ。昨夜、一緒にいた女性は…
顔をすっぼり覆う長めのベールの付いたトークハットを被ってはいたが、ベールから薄っすらと見える顔さえも、その女性は美しかった。
私とは…ぜんぜん違う。
そう思うと、なんだか惨めで後ろに下がりながら、
「私…かえ…「待ってろ!」」
私の帰ると言う小さな声を、ラファエル王子の大きな声が遮った。
き、聞こえた?
「ぁ…は、はい!」と驚いて思わず言ったものの、でも…とその女性に、目をやって、慌てて視線を外し、下を向いてしまった。
だって、その女性の手が震えているから、見てはいけない気がして、女性は「ごめんなさい。すぐに帰りますから…」と穏やかな声だったが、あの震える手がすべてを物語っている。
この人はラファエル王子を愛している…と
だけど、ラファエル王子は気がつかない?、それとも…気づきたくない?
ラファエル王子に目をやると、なぜだか王子様は、不機嫌な顔で私を見ていて
「昨日、言えなかったことがあるんだ。だから、待ってろ。」と言うと、乱暴に部屋を開けると入っていった。
き、昨日なんて言っちゃ…よくないんじゃない?昨日…この女性と、その…あったわけだし…この状況、どうしたらいいのだろう。
そう思って、握り締めた手に力が入ったとき
その女性が、戸惑うような小さな声で
「…ここの宿の支配人とは知り合いなの。だから一人でもここに入れるから、来てしまったの。ごめんなさい。今日取りに来る必要はなかったんだけど、ラファエル様のところに、置いておくのも…どうかと思って…」
この人は…穏やかな声の裏で…泣いている。
「い、いいえ、こちらこそ、なんて言ったら良いのか、あのすみません…。」
私の言葉に、少し笑ったのか…ベールの隙間から赤い唇が緩んだのが見え、ふっ~と大きくその女性が息を吐き…
「ダメね、こんなこと…」と言うと、トークハットのベールを上げ
「…ほんとはね。」
「えっ?」
「ほんとは忘れていったわけじゃないの…置いていったの。見つけて欲しくて、今更こんな事をするなんて、私は…」
と語尾を濁し、踵を返すとその女性は歩き始めて
「ラファエル王子に、どうぞ、それは捨てておいてくださいと伝えてくださる?」
「ま、待って!!いいんですか?!だって…だって…」
あなたは…好きなんでしょう?…手が震えているのに。
思ったことを、すべて口に出来なかった私は、ただ…「でも、でも…」としか言えなくて、そんな私に、その女性は頭を振って
「これ以上愚かなことをして、惨めになりたくないから、もういいの。」
と言って、また歩き出そうとした時だ。
部屋の扉が開きラファエルが、私とトークハットのベールをあげている女性に視線をやると、訝しげに眉をあげ…その女性に近づきトークハットのベールを下ろしながら
「無防備に、顔を晒すのは、ご主人に迷惑がかかるのでは…」
「そうですわね。でも、この可愛いお嬢さんに、ベール越しでお話するのが、なんだか失礼な気がして…」
ラファエル王子は、戸惑うように、瞳を揺らし
「どうしたんですか?トークハットのベールをあげて、顔をみせたり、こんな物を忘れるなんて…あなたらしくもない。」と言って、差し出したのはハンカチだった。
マリーからは、見えないようにとラフアェルが差し出したのを、女性は、マリーにも見えるように、わざわざ広げた。
それは“B”と“I”のイニシャルを組み合わせた手刺繍のモノグラムの上に、九つのパールを戴く王冠、伯爵家の紋章があしらわれたホワイトワークのハンカチで、周囲にはぐるりとクリスマスローズにも似た雰囲気のお花の模様、何種類ものニードルの透かしの細工、いずれも緻密で繊細な手刺繍が施され、特に びっしりと細かなステッチで埋められたお花を、あしらったモノグラムと王冠の刺繍は秀逸だった。
あの紋章は…エフレイン国の高潔の士と呼ばれるグレゴリオ・バルディーニ伯爵(Baldini) の紋章…まさか…“I”とは、奥様の…イラリア様(Ilaria )?
バルディーニ伯爵は、噂では…いや、グレゴリオ・バルディーニ伯爵が、前エフレイン国王の息子だと言うことは公然の秘密だ。50年近く前、前エフレイン国王と、前バルディーニ伯爵夫人との間に出来た御子が、グレゴリオ・バルディーニ伯爵なのだ。
貴族の間では、火遊びを楽しむものが多くはいるが、王が腹心であった伯爵の、その妻を孕ませた言うのは前代未聞であった。また時期も悪かった、ちょうどアルメリア国との繋がりを深めるために、アルメリア国の王女を娶ったばかりだったのだ。さすがにアルメリア国の手前、前バルディーニ伯爵夫人を側室に上げることは出来ず、生まれた子も…伯爵家の嫡男として育てられた。だが、密かに事を進めても…そういう話はなかなか隠せるものではない。
人の口に戸は立てられないということだ。
そういういきさつで、生まれたグレゴリオ・バルディーニ伯爵を人は、悲劇の王子と密かに呼び、また利欲のために心を動かさない人格者であることが、国民の間では人気がすざましく(エフレイン国の高潔の士)とも呼ばれ、中には彼を国王にと平然という者さえいるという。グレゴリオ・バルディーニ伯爵が人格者だから、そんな話を笑って聞き流しているが、その気になれば…エフレイン国の王として彼を担ぎ出す貴族たちは大勢いるだろう。
そんな方の奥様と…いやそれどころか、2人は義理と言え、甥と叔母の関係だ。血のつながりはないが、甥と叔母の関係の2人が男女の関係だと、バルディーニ伯爵が知ったら…国民が知ったら…
エフレイン国が揺らぐ。
ラファエル王子の…スキャンダルだ。
青くなったマリーの顔を見て、伯爵夫人は…
「お嬢さんに、私の素性が知れたようですわね。ラファエル様、もう今日限りでお別れでございます。」
そう言って、伯爵夫人は微笑み…歩き出した。