俺、受話器を取って唖然とする。
ほふく前進を成功させて、ようやく俺はリビングへと到着することが出来た。
だけど、リビングの電気はもちのろん点けない。そんなことをすれば、もしどこか外に潜んで家の中の様子を窺っているかもしれない誰かに、気づかれる恐れが十分にあるからだ。
だから、ここでも俺は忍者よろしく、忍び足で音を出来るだけ消して、固定電話の前に行った。
固定電話の前に着く。
でも、なんかおかしい。何だろう? 違和感。
でも、その違和感が何なのかは分からない。嫌な予感がする。いや、これは予感なのか。それとも経験則なのか。分からない。分からないけれど。一刻も早くこの危機的、恐怖的状況を脱するべく受話器を上げ、耳元に当てた。
…………。
音が聞こえない。
耳に当てた受話器の向こうから聞こえてくるのは、静寂。
恐怖が、恐怖という名の生き物がわらわらと湧いてきて、俺の体中を駆け上り、そして俺の体内に侵入する。
終わった……。終わった……。
唯一の望みが絶たれた。
放心状態に陥った。
耳元には、まだ受話器が強く押し当てられている。
それは、もしかしたら受話器の消えた音が、再び聞こえるのではないかというありえない妄想。
押し当てられた受話器はまるで、深夜、暗黒の海が目の前に広がる砂浜で大きな貝を耳に当てているかのよう。それはどこか得体が知れなくて、浮世離れしてるような感じだった。
どうしよう。これからどうしたらいいんだろうか。
緊張の糸が切れたのか、心が当てもなく彷徨い始めた。
今の俺はまるで海に漂う幽霊船みたいだな。なんて、今の自分の状況をやけくそな気持をエネルギーに変換し、分析した。
その時、再び……。ピンポンピンポンー……の代わりに、「ワンワン」という犬の鳴き声が玄関から聞こえた。
「い、犬?」
俺は色々と思考を巡らせた。
もしかして、もしかしたらだけど、犬が、野良犬がチャイムを鳴らしたとかいう可能性もある……のか?
でも、俺は冷静になってよく考えてみた。
チャイムが三々拍子に鳴らされたこと、そして、電話が不通なこと。これらのことを考えると犬の鳴き声た聞こえたからといって、犬が押したとは考えにくい。考えられるのは一つ、犬を利用して、ああ、犬か、と思わせておいて、玄関を開けた所をその犬の飼い主である、不審者が家の中に侵入するということだ。
第一、犬が、野良犬が、玄関のチャイムを鳴らすこと自体考えずらい。まあ、俺の家のチャイムは比較的低い位置にあるから、犬が鳴らすことは不可能ではないけれど。でも、だからと言って犬が鳴らすというのはやはり、違うと思う。いや絶対に違う。ありえない。
俺は台所へと向かった。そう、武器を手にして立ち上がるのだ。身を守るのだ。自己防衛するのだ。今の俺に出来るのはそれだけなのだ。
台所の引き出しを開けて、包丁を一本取り出す。その他の包丁は、不審者に取られるとまずいので、床下に隠した。
包丁を隠すように手に持つ。後は、バットかなにか、他に武器になるものないかな。俺は考える。
でも包丁を使うにしても、俺本当に不審者が襲い掛かってきた時、本当に実際に武器として使えるのか?
自慢じゃないけど、俺は今まで、他人を故意に傷つけたことはない。……と思う。まあ、とは言っても、子供の頃のことは覚えていないから別だが。実際、自分の記憶がはっきりとしてからは、人に肉体的に傷をつけた記憶は俺にはない。もしかしたら俺が自分自身を美化してそう思っているだけかもしれないが。まあ、なんと言っても俺、自分大好き人間だからな。記憶の悪い部分を消して、都合のいいように上書きしている可能性もないとは言えない。それに肉体は傷をつけた記憶がないけれど、精神的には何回か酷いことを言ったことがある。……もしかしてそっちの方が酷かったりする? そんなことないよね。肉体に傷をつけることの方が、酷いよね。でも、精神に傷をつけて、自殺とかさせたら、変わんないか。ああ。なんで自己嫌悪に陥っているんだろうか。って、自己嫌悪に陥っている場合じゃなかった。今はこの危機的状況から脱することだけを考えなくては……。
包丁が武器として使えるかどうかだな。
でも、包丁を太ももに刺したりしたら、出血多量で死ぬ可能性があるからなあ。ふとももを刺すのはやめておこう。じゃあ、どこを刺せばいいんだ? 威嚇で不審者が家から出て行ってくれればいいんだけど。待てよ。足の指を切断するっていうのはどうだ? それならば、相手が出血多量で死ぬ可能性もふとももに比べれば少ないかもしれないし、足の指を切断出来れば文字通り相手の足を奪うことになるんだから、こっちが逃げるという意味では優位に立つ。痛みで俺を追いかけまわすことが出来なくなるかもしれないし、足も痛みで歩けなくなるかもしれない。そうしたらその隙に警察に行って不審者を逮捕することだ出来る。よし、この手でいこう。もし不審者と闘うはめになったら相手の足の指を狙って切断しよう。でも、その前に相手の足まで辿りつくことが出来ればの話だけどな……。
思いながら、俺はふーっとため息を吐き出した。




