第二十話 タイムリミット
緊急クエストは残り時間が零、つまりタイムアップを迎えていた。
「……」
僕は無言で大きく息を吐くとそのまま膝から崩れ落ちた。
そしてその地に着けた膝に広がっていく血の水たまりが染み込んでくる。それだけでとんでもない量の出血がわかるというものだ。
それこそ出血している人物が死んでも何らおかしくない、そう思わせるような。
そんな風に考えながら顔を上げた僕の目に映るのは顔どころの話ではなく全身を血で真っ赤に染めたメルだ。
それ見て僕は、
「……無事かい、メル?」
叩かれた頬を手で押さえて呆然とした表情をしているメルに対してそう声を掛けた。
その体に傷と言えるものは腫れたその部分しか存在しない。もちろんのこと未だに意識が戻らずメルの傍で寝たままのオルトに至っては完全な無傷でありノーダメージだ。
この時点でこの大量の血は誰のものかなど言うまでもないだろう。
「コノハ、さん……?」
まだこの状況が呑み込めていないのか、それとも目覚めたばかりで寝ぼけているのか呆けた状態のままメルは呟く。
僕が膝を付いたこともあって同じぐらいの高さで顔を見つめ合う形である。
「僕の名前がわかるってことは意識が戻ったと思っていいのかな?」
「あ……」
その言葉に自分が何をしていたのかを思い出したのか、サッと顔色が青くなった。
でも僕はそれを見て安心して思わず笑ってしまう。
目に光が戻っているし人形のようだった先程とはその様子が全く違っていたから。
「わ、私、なんて事を」
「反省するのは後にしよう。それよりその発言からすると事は自分が何をしようとしていたかの記憶はあるんだね?」
「は、はい、うっすらと夢を見ていた感じで覚えています」
「そっか……って、そんなこと言ってる場合でもないかな」
そこでメルがこの状況に気付いて息を呑む。
即ち僕の全身がズタズタに斬り裂かれており、無数の傷口から大量出血していることに。
「ああ、大丈夫。問題ないから」
ステータスが見えないからメルの安否を確認するのに気がいっていて魔法を使うのを忘れていた。
すぐさま魔法を使って傷を消そうとしたけど、僕はそこで思い止まった。
(これで魔法を使って治すとペナルティに引っ掛かるのかな?)
勇者だと名乗っていないがその力を見せることにはなるのは間違いない。
とは言え、流石に血を流し過ぎたらしく、少しクラクラしてきているのでのんびりしている暇もない。
いくら高レベルでも体の中にある血液の量は限られている。それを大量に失えればこうなるのが当たり前だった。
(まあいいや)
血が足りないせいで頭がうまく働かないせいか、駄目なら警告音が鳴るだろうという考えの元、僕はとりあえず傷を消すように魔法を発動してみる。
結果から言えば普通に使えて体の傷は消え去った。ついでに衣服の修復や汚れなどを消しても、ボックス内から回復薬を数本まとめて取り出して飲んでも問題なし。
この分だと勇者だとばれなければ勇者の力を他人に見せてもいいのだろうか。
(って、それも後で考えればいいか)
HPが回復すると同時に失った血も戻ったのか意識もはっきりしてくる。増血剤のような効果もある上にこの即効性は非常に助けられるというものだ。
あの時、メルに接近を果たした僕は殴られた時の衝撃や鎌鼬の威力からメルのおおよそレベルを予測し、それより少し下になるように設定した後にその頬を叩いた。
所謂気付けの一発という奴である。
殺さない為に仕方なかったとは言え、レベルを下げれば当然のことながらそれに比例して肉体の強度も下がる。つまり向こうの攻撃が効くようになるというわけだ。
その結果、急いでレベルを戻そうとしたが間に合わなかった分だけ鎌鼬に全身を切り刻まれて、こうして大量出血という訳だ。
もっともそれも狙いの一つではあったのだけれど。
メルは僕の匂いをその高い嗅覚による識別能力で覚えており、そして匂いを嗅ぎ取る精度も半端ではない。
半人半獣の特性として匂いは人を見分ける一つの指針でもあるはずだし、顔に血をぶっ掛けられれば嫌でもその匂いを感じることだろう。それこそ無意識の内でも。
闘技大会で傷を負ったこともあるからメルが僕の血の匂いを覚えている可能性もあるし、そうでなくともメルの嗅覚ならその血の匂いの中からでも僕の匂いとやらを嗅ぎとれると思ったのだ。
そしてそれで僕のことを思い出せばと期待したのである。
もちろんその二つがダメだったときは身を挺してでもメル達のことを守るつもりではあったが、そうならなくて一安心。
我ながら穴だらけの杜撰な作戦ではあったがうまくいったのでよしとしよう。
とにかくメルの暴走も収まった訳だし、これできっとクエストも無事にクリアされて……いない。
いや正確に言えば、緊急クエストの方はクリアされていたが、その他がまだ終わっていないのである。つまりまだ何かがあるということだ。
そこで僕はハッとして上を見える。先ほどまでそこにあった風の塊がどうなったのかを確認するために。
案の定、それはまだ消えていなかった。てっきりクエストからメルが正気に返ればあれも消えると思い込んでいたが、そう都合よくはいかないらしい。
完全な球状になったその風の塊はサイズも巨大化しており、直径で二メートルはある。
その見た目は小さな台風とでも言えばいいのだろうか。風がその中や周りをグルグルと回っているのがわかる。
周囲を取り囲んでいた風の渦が消えたということは、そのすべてがあの塊に凝縮されているということにまず間違いない。
だとすれば仮にあれが解放されれば一体どれほどの威力になるのか想像もできなかった。
そしてその塊は徐々に、まるで風船の落下速度を何倍にも遅くしたように地面に落ちてきている。
駄目元で魔法を使ってみるが結果は前と同じ。
どうやらあの風の塊は渦と同じように魔法が効かない何らかの性質を持っているらしい。メルのステータスも一向に見えないし、一体どんな能力なのだろうか。
(ともかく、まずはあれをどうにかしなきゃな)
この様子で地面に落ちらが碌なことが起こる気がしない。その前にどうにかする必要があるだろう。
「メル、あれを抑え込むことはできるかい?」
「できるかはわからないですけど、やってみます!」
責任を感じているのか張り切るというよりは張り詰めるといった様子でメルは僕の質問に答えた。
メルの性格から言って気にしないのは無理なのはわかるが、必要以上に責任を感じないといいのだが。
「無理はしなくていいからね」
「は、はい!」
そうしてメルが両手を風の塊へと向けると右の手の甲に例の緑色の紋章が浮かび上がってきた。
「うぅ!」
必死の様子で制御を試みているようだが風の塊に変化が起こる様子は欠片もなく、落下を続けている。
額に汗を浮かばせながらメルは唸るが、それでも結果は同じだった。
「もういいよ。これ以上は無茶だ」
僕はまだ止めようとしないメルの腕に手を掛けてそう言う。
「はあ、はあ、で、でも」
「いいから」
無理はしなくていいと言ったのに、僕が半ば強引に手を下げさせたメルは苦しそうに呼吸を乱している。
この様子だとメルに任せて続けていたら一体どこまでやっていたのやら。
「どうして? 私が作り出したはずなのに」
そう呟くメルだが、僕はこの結果をある程度予測できていた。
あの時のメルは普通ではなかった、前とは違った意味だが暴走していたようなものだ。
通常の状態に戻ったメルではあれは扱いきれないという可能性は大いにあり得ることだろう。
「……ごめんなさい、一人で消えるはずだったのにそれも出来ないなんて。私、コノハさんや皆に迷惑掛けてばっかりですね」
そう言って責任を感じている様子のメルに僕は、
「いた!?」
軽く拳骨を落とした。もちろんレベルは制限して。
「反省するのは悪いとは言わないよ。でもさっきも言ったけど、それは後。今はそれより優先しなければいけないことがあるだろう?」
拳を開いて頭を撫でる。
「それとメルは本心では一人で消えたいなんて思っていなかったんじゃないかな。だって、それだと暴走した後もずっとオルトを傍に置いておく訳がないからね」
「あ……」
どんな状況になっても、どれだけ力を暴走させてもオルトだけはメルの傍にずっといた。風の渦の影響も受けなかった。
それはメルがそれを望んでいなければあり得ない現象だと僕は思う。
そもそも一人で消えるだけならもっと簡単な方法が幾らでもある。
それなのにあれだけの規模で風の渦まで作ったのは、まるで多くの人に気付いてほしいからに思えなくもない。
「きっとメルは誰かに自分の暴走を止めて助けてもらいたかったんだよ。そしていつも守ってくれようとするオルトにその願いを真っ先に託そうとした。そう僕には思えるな」
そこで叩いた頬が思った以上に腫れて来ていることに気付いて、僕はその頬に手を当てる。そして魔法でそれを治療した。
「今回はその役目を僕が引き受けるよ。そしてこの件が片付いたら色々と話をしよう。大丈夫、僕はこう見えても実は結構強いんだよ」
僕が手を離した数秒後、メルは自分の頬の痛みが引いているのに気付いたのか自分の頬に手を当てている。
そこで腫れもなくなっていることにも気が付いたようで目を丸くしていた。
その反応を見て僕は微笑み、すぐにおかしな点に気付いて我に返った。
(魔法が効いてる? 何で?)
ステータスを見るが何も先程と変わらず何も表示はない。
では何故魔法だけは効くのだろうか。そこで僕は魔法の特性について思い出した。即ち、直接触れればMP消費が半分になるという点を。
「まさか……」
改めてメルの頭に手を置いてみると、その瞬間にステータスも表示されるし、その他の機能も同じように正常に働いている。
そして手を外すと同時にまた見えなくなった。
(直接触れればメニューも効果を発揮するのか?)
これがあの風の塊も同じだとすれば……
「方法はある」
問題は不用意にあれに触れていいのかだが、考えてみればこのままだといずれは地面に接触するのだ。
接触の衝撃で爆発するのであれば、僕が触れても結末を迎えるのが遅いか早いかの違いでしかない。だとすれば試してみる価値はあるだろう。
でもだとしたらその前にやらなければならないことがある。
僕は狐面を装備すると、
「いい加減、終わりにしようか」
この長い騒動に終止符を打つ事を宣言するのだった。