第十九話 拒絶の風
風の渦の中は想像以上に動きにくかった。
もっともただでさえ普通なら為す術なく吹き飛ばされてもおかしくない状況で、あえてそれに逆らってその中心地点に進もうとしたのだからそれが当たり前なのだが。
(気を抜けば吹き飛ばされてもおかしくないな)
中心地点に近付けば近付くほど風の威力は増していく。僕は先程のように無様に吹き飛ばされないようにしっかりと踏ん張りながら先へと歩を進めていった。
いきなりだった先程は別にして、覚悟を持って臨めばこの風の渦の中でも特に問題もなく進める自分の高レベルが若干恐ろしい。
呼吸に関しても既に五分以上も止めたままなのにまだまだ余裕だし。
そうして進み続ける事しばらく、ようやく辿り着いたその中心地点には風がなかった。それこそまるで台風の目であるかのように無風で周囲が荒れているのが嘘のようである。
そしてそこにメルとオルトがいた。オルトの方が未だに意識を失ったままであり、直接その姿を視認する事で確認できたステータスやその様子にも特に変化はない。
だけどメルの方は明らかに異常を来たしているのがその外見だけで判断できてしまった。
棒立ちで真っ直ぐに正面を見据えるその目には意思を感じさせる光がない。
それに加えて全く変化しない能面のような表情と相まってまるで人形、それこそ精巧なマネキンがそこに立っているようにさえ見えた。
そしてメルの方はその姿を視界に収めてもステータスが表示されず、その手の甲にはクリッジの言っていた通り緑色で明滅を繰り返す紋章とやらが浮かんでいた。
それはどこかクリッジに見せられたネックレスを思い起こさせる紋様だ。
(やはりと言うべきか、メルが勇者の仲間であることは疑いようがないみたいだな)
だとしても僕のやるべきことに変わりはない。
僕はメニューを操作して狐面をボックスに戻すとペナルティを覚悟して、素顔を露わにしたその状態でメルに話しかけた。
もう同じ間違いはしない為に。
「見つけたよ、メル」
反応はない。相変わらずどこを見ているのかわからない目をしていた。
それでも僕は声を掛け続ける。両腕を広げて敵意がない事を示して一歩ずつゆっくり近づきながら。
「もう大丈夫。だから一緒に帰ろう」
あと少しで伸ばした手が触れる、その距離まで来た時だった。
メルの目が動いてこちらを見る。相変わらず感情の色もない瞳だったけれど、それでも反応があった事に僕は少しだけ安心して、伸ばしたその手でその体に触れようとした。
「……で」
「え?」
その時だった。メルの口から言葉が漏れたのは。
高レベルの体はそのか細い声でも聞き逃すことはなかったが、僕は反射的に動きを止めて聞き返してしまった。
「来ないで」
その状態でもこちらの言葉は届いているのかメルは僕のその言葉に答えるように同じセリフを繰り返す。
瞬間、それまで無風が嘘だったかのように突如として突風が正面から吹き付けてきた。
「くっ!」
またしてもいきなりの事だったとは言え、今度はしっかりとその場に踏ん張って堪える。こうなる可能性だって考えていたからそれ自体は簡単だった。
「メル……」
問題はメルが僕を拒絶したということだ。正体不明のコンではなく、少しの間とは言え行動を共にした木葉である僕を。
それとも僕が誰だかわかっていないのだろうか。
言葉は話しているが様子がおかしい事には変わりがないし、あるいは意識がほとんどないのかもしれない。
「僕が誰だかわかるかい? 結城木葉、君の味方だよ」
「……コノハ?」
匂いを嗅ぐかのようにほんの少しだけ鼻を動かしながらそう呟いたメルの表情はこれまでと違って僅かながら感情の色が見えた。
でもその様子だと僕の事を認識できていないらしい。無表情やこの状態から察するに意識がほとんどないのだろうか。
だが僕の名前には反応を示したのもまた事実。どうにか言葉による説得でメルを元に戻せないかと僕は試みる。
「そうだよ。横で眠っている君の双子の兄のオルトや少し口うるさくて厳しいけど本当は優しいティアと同じ君の仲間だ。わからないのかい?」
「仲、間?」
徐々にだけどメルの瞳に光が持ってきている気がする。
このまま目覚めてくれ、そんな風に僕は願った。だけどそんな簡単に行くのならそもそもこんな事態になっていないのだろう。
「くっ!?」
次の瞬間、先程と同じように風が拭きつけると同時に背中に強烈な衝撃が奔った。
後ろからの奇襲という事もあって僕は前に向かって躓きかける。倒れはしなかったがバランスは崩されてしまった形だ。
そして肉体には全く損傷もなかったが、服はバッサリとやられていた。
触った感じだとまるで鋭利な刃物で斬られたかのように綺麗に衝撃があった付近の場所が裂けていた。
目に見えない攻撃、そしてそれが風に関係していると仮定して、連想されるものと言えば、
「鎌鼬、かな?」
どうやら魔術か何かでそれに近い物を発生させているようだ。
恐るべき点はマップ上に緑やそれ以外の光点が浮かんでいない事だろう。
これが神に認められた勇者の仲間相手だからなのか、それともメルが新たに得た力によるものなのかはわからないが厄介な事に変わりはない。
それからメルに何か声を掛けようとしたが、まるでそれを邪魔するように鎌鼬が襲い掛かり、思うように言葉を発することが出来ない。
(どうする? このままじゃ一方的にやられるだけだ)
ダメージはないが、それでもかなりの衝撃があるから顔や腹に受けると言葉は止まる。そしてそれを狙っているかのようにその攻撃はやってくるのだ。
それはまるでメルが僕の言葉を聞くのを拒んでいるかのように。
「……もう来ないで。私はここで消える、それですべてが終わるの」
「何を言って!?」
そこでまたしても一撃を貰うがその威力はドンドン強くなっているように思えた。
ダメージがない事を見抜かれているらしく、段々と手加減されなくなっているらしい。服など既にボロボロだ。
「私はここで覚めない眠りに着くの。そうすればこれ以上、誰も傷つかないから」
(まさかこの風の渦はその為に作り出したって言うのか? 誰にも近付かせない、その為だけに)
でも思い当たる節がない訳ではない。それはクリッジ達の傷が思ったよりも浅かった点だ。
正直に言えばあの程度のレベルだとこの風の渦に呑み込まれた時点で即死していてもおかしくないはず。
だが現実としてクリッジ達は傷やダメージは負っていたものの、逆に言えばそれだけだった。
それはこの風の渦があくまで誰も近付かせない為だけに作られ、そういう風に機能しているとしたら辻褄が合う。
あくまでこの渦は侵入するものを拒むだけの装置なのだとしたら。
そしてそれは恐らくメルの思いでもあるのだろう。
もうこれ以上誰も巻き込みたくないという。それで自分だけが消えればいいと思うのはメルらしいと言うべきなのだろうか。
鎌鼬の威力が最初は抑えられていたのも今にして思えば傷つけ過ぎないようにと言うメルなりの配慮だったのかもしれない。
(まったくもってメルらしい)
でもそれで笑ってはいられない。メルの言葉を信じればこのまま彼女は覚めない眠りとやらに着いてしまうのだから。
もちろんそれを僕が許すなんてある訳がない。
こうなっては仕方がない。少し手荒な方法を取ってでもメルをこの場所から連れ出す。僕はそう決めた。
そして決意したからにはすぐ行動に移す。そう、これまでその場で動かず耐えるだけだったのを止めると、一気にメルへと向けて走り出したのだ。
当然のことながらメルは反撃として無数の鎌鼬を当てに来るが、僕は歯を食いしばって衝撃を堪え、そのまま前へと進み続けた。
そしてメルとオルトに向けて両腕を伸ばす。例え抵抗されてもそのまま強引に抱えていくつもりだったのだ。
鎌鼬だけならそれは充分に可能だったろう。だけどそんな訳がなかった。
その体に手が触れそうになったところでメルはそれまでの人形のような様子とは裏腹にこちらの手の動きを目で追うと、俊敏な動きを見せて伸ばしたこちらの手を払い、がら空きとなった胴体に向けて容赦なく拳を叩き込んできた。
そしてその拳に纏っていた風によって弾き飛ばされる。必死に地面に足を着けて勢いを殺さなければ風の渦に突っ込んでいたころだろう。
わかってはいたが膂力では勝っていても体術では完敗である。
その上、今はメルの力も信じられないほど強化されているらしく、そうなれば接近戦でどちらに分があるかは明らかだった。
そもそも条件が互角なら素人の僕などメルの相手になる訳がない。
しかもこちらはメルを助けようとしている上に、どこまでダメージをあたえていいのかさえわからないのだ。
メニューが使えればステータスを見ながら加減を考えられるのだが、今のメルには通用しないのでそれも無理だし、素人の僕に感覚で理解するなど無理難題である。
と、ここまで無駄な事をやり続けて失敗ばかりしているように思えるかもしれないが、実はそうでもない。
「もう来ないで」
最初は人形のようだったメルが徐々にではあるが感情を露わにしてきている。その様子が人間のそれに戻って来ているのだ。
それがメルの言う事を聞かずにしつこい僕に対しての苛立ちから来るものでも一向に構わない。
(この調子で意識が完全に目覚めればきっと!)
目標としては僕が誰なのかをわかるくらいまで戻すことだろうか。そこまで我に返ればどうにかなる……と思いたい。
「どうして邪魔をするの? 私が消えればすべて終わるのに」
それに対する率直な返答はクエストだから、だろう。
助けたい気持ちは確かにあるが、クエストがあるからこそここまでやっている面も否定できないし。
だけどそれを言ってしまっては説得にならない。どうにかいい事を言おうとして、
「……まあ、一度命を救った相手がこんなところで死なれるのは何となく寝覚めが悪いからね。折角助けた命なんだから僕としては無駄にして欲しくないんだよ」
考えつかなかったのでクエスト抜きでの正直な気持ちを言うしかなかった。この状況で何時までも黙っている訳にもいかないし。
でも僕に話をさせる事を許すだけメルは先程とは違って来ていた。恐らくは気付いていないのだろうが。
「命を、救った……うっ!?」
そこで予想外な事にその言葉は思った以上の効果を齎したようだった。メルは急に頭を押さえて苦悶の声を上げ始めたのだ。
まるでその言葉をキッカケにして何かを思い出しそうになったかのように。
だけどそれは同時にメルの危機感を強める結果にも繋がった。
「もういい、もういいの。何もわからなくていい。あなたが誰だろうと関係ない! 私が消える、必要としているのはそれだけだから!」
最後は叫ぶように言い切り、周囲の風の渦が勢いを増していく。そしてそれまで安定していた形を崩し始めたのだ。
それを見て直感的に僕は不味い事態だと理解する。
そしてそれが正しい事だと示すように新たなクエストが現れた。
『メルの意識を目覚まさせろ』という残り時間が僅か五秒の緊急クエストとやらが。
(この状況で新しい種類のクエストって、もっと早く出してよ!)
残念な事にそんな文句を言っている暇などなく僕はすぐにメルに向けて走り出した。
だけどこのまま接近したところで前と同じに終わるだけ。
それで今すぐメルの意識を目覚めさせられる確証はないし自信もない。
何かもっとインパクトを与えられるものはないのか。メルが嫌でも僕の事を意識して思い出すような何かが。
そう咄嗟に考えて思い付けたのはある方法だけだった。そして時間がない今、それでいいのかなんて言っている暇もない。
風の渦が形を崩してメルの上に集まっていく。
その風の塊とでも言うべきそれが落ちるのか爆発するのか、あるいはそれ以外なのかはわからないが何であろうと発動させるわけにはいかない。
「メル!」
残り二秒、僕はメルの名前を呼ぶ。既にメルの顔には感情がある。だけどその目にだけはまだ光がなかった。
「もう、来ないでって言ってるでしょ‼」
これまでで最も強い拒絶の言葉とその意味が込められた拒絶の風、無数の鎌鼬が見えなくとも僕に襲い掛かろうとしているのがわかる。
だけどそれで退く訳がない。僕は無視してそのまま突っ込み、
「いい加減に、しろ!」
ギリギリまで接近を果たしてその頬を強めに叩いたその瞬間、
迸る血がメルの体を赤く染めることとなったのだった。