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Off With Her Red 或いは逃げる赤

作者: 傘竹掛手

 「それ」を目撃したのはすれ違う人々が夕闇に滲みゆく頃だった。喉の渇きに気付いた私は数歩先にある青い自動販売機に目を留めると、小銭を探して上着のポケットをまさぐった。必要な金額を掴み取ると、薄暗がりの中で投入口に小銭を押し入れ、ディスプレイに飾られたコーラの缶を探す。立ち並ぶ缶の中で赤い缶を見付けるなど造作も無いことだ。コーラの下で赤く光るボタンを押し、受け取り口に落ちるのを待つ。鈍い音を響かせて落ちて来た缶を手に取り、……そこで異変に気付いた。缶が赤くないのだ。薄闇の中でも目立つ筈の赤がすっかり消え、(この色は何だろう、灰色だろうか?)模様だけが辛うじて判るような、一世代前のモノクロ広告を彷彿とさせるものになっている。これは光線の影響だろうか。それとも薄闇のせいか、はたまた突然色盲でも発症したのか。或いは缶自体がこのようなデザインに変わったか。しかし、こんなデメリットしかないデザインに変える必要性が何処にあるだろう。とすると、矢張り原因は缶以外にあるとしか考えられない。それでは光線のせい、というのはどうだろう。動いてみれば光の加減で見え方が変わるかもしれない。数歩右へ歩き、違和感を覚える。常日頃の風景と変わらない筈なのだが、しかし何かが違う。何だろう、と自販機の傍に目を遣り――違和感の元はそこにあった。ゴミ箱である。青いゴミ箱はペットボトル用、赤は缶用、ステンレス製のゴミ箱は燃えるゴミ用と、至極一般的な分け方をされている。勿論分別は全くされておらず、缶用のゴミ箱にペットボトルが捩じ込まれている始末。しかし問題はそこではない。間違い探しの正解は――赤いゴミ箱から「赤」が逃げ出そうとしている、ということなのだ。私が何を言っているのか判らないと云う人は正常だ。私自身、何が起こっているかさっぱり判らなかったのだから。兎も角、「赤」が赤いゴミ箱――もう既に半分程は「赤」が抜け、モノクロ化していたのだが――から抜け出そうとしていたのだ。

「何だ君は。何故抜け出そうとしているのだね」

「赤」は私を見て(実際、「赤」には顔など無かったのだが)笑ったようだった。

「もう人間にゴミで汚されるだけの色生など真っ平なのですわ。色で分けたとて分別される訳でなし、私の居る意味など無いではありませんか」

色にも分別という意識は存在するらしい。私は感心した。

「青の方はいいのか」

「『青』は意気地がないんです。あの地位に甘んじているのですわ」

「赤」は身を震わすとずるりとゴミ箱から抜け出した。ゴミ箱は完全に色を失い、それだけがモノクロ写真にすり替えられたようだった。

「見ていて下さいまし、きっと『青』は私が居たあのゴミ箱を乗っ取ります」

言われるままに見ていると、なるほど青いゴミ箱に接している部所からじわじわと、青インク壺を引っ繰り返したかのように先程まで赤かったゴミ箱は青色に染まって行く。これではいよいよ分別のしようがない。

「君は喋るが『青』は喋らないのかね」

「だから『青』は意気地無しなんですの。自分から行動しようなんて心がちっとも無いんですわ」

「赤」は不意に伸び上がると私の手元を覗き込む。

「あら、そちらの『赤』も逃げ出してしまったのね」

「矢張りそうか。何故逃げてしまったのだろう」

「大方貴方に飲まれるのが嫌だったのでしょう」

カラカラと笑う「赤」を尻目に私は缶のプルタブを上げた。中身は少し生ぬるくなっていたが普通のコーラで、私は安心して一気に飲み干すと、ステンレス製のゴミ箱に放り込んだ。

「君はこれからどうするんだい」

「そうね、もっと素敵なところを探すわ。もっと赤を重宝してくれそうなところ。西班牙(スペイン)なんかどうかしら。きっと情熱的な余生を送れるわ」

「赤」は楽しそうに呟きながら公園の向こうへと去って行った。

 一人残された私は酷く混乱していた。「赤」が逃げる。訳が判らない。「赤」に言わせてみればもうこんな使われ方はうんざりだ、ということらしいが、それは非常に困ることだし、第一有り得ない。しかし、現に目の前では赤色だったはずのゴミ箱は青色に変色し、コーラの缶はモノクロ写真の悪質なコラージュと化している。……いや、そもそも、赤いゴミ箱から抜け出して来たにゅむるっとした物体が果たして「赤」であるのかということは別の問題であるし、そもそも「赤」に質量があるのかという素朴な疑問が湧いてくる。更に言うと「赤」は概念であり、個人や属する集団によって「赤」は違うのだから一概に「赤」が逃げると言っても……私は眼鏡を外すとネクタイで丁寧に拭いた。困惑した時の癖である。妻には止めろとよく言われるのだが……そんなことはどうでもいい。他の「赤」はどうなのだろう。矢張り逃げ出そうとしているのか。辺りを見回すと案の定、「赤」が様々な主体からずるずると抜け出している。信号、ポスト、三角コーン、屋根、看板、妙な所では薔薇から抜け出している「赤」もおり、何とはなしにハートの女王を連想する――「あの首を切っておしまい!」

「人間を止めるためだけに瞬きするなんて」「吹き晒しの身にもなってみれば」「怨嗟やら嫉妬を中に溜め込むのもいい加減身の毒で」「蹴飛ばされない国に行くの」「もっと綺麗な花のところへ」

 「赤」達の恨み辛みが路地内に響き渡るも、並び立つ家からは誰も出て来ない。僅かに涼やかな風が道路の上を走る。蜩の声がアスファルトに滲みていく。闇が少しずつ落ちかかってくる。もしやこの声は私だけにしか聞こえていないのではあるまいか。果たしてこれは幻覚、幻聴なのかも知れぬ。あのコーラの缶を見た時、あの赤が見えないと気付いた時から、色盲になったことを認めたくなくて脳が幻覚を作り出しているのではないか。私は恐ろしくなり、両手を振り回し叫びながら狭い路地を走り出そうとした。幸いにもそれをしなかったのは、後ろから自転車で走ってきた男子生徒が私の真横で自転車ごと倒れたからである。手を貸すまでもなく立ち上がった男子生徒はぽっかりと口を開けて赤の大行進を見つめ、何だあれ、と呟いた。彼にも見えている! 私は歓喜した。少なくとも私の気が違った訳では無いようだった。私と少年がぼんやりと「赤」のパレードを眺めているうちに、周りの景色からは「赤」がじわじわと失われて行き、「赤」の居た場所は他の色に侵食されるか、もしくはそのままモノクロ写真を合成したような色合いで残った。

「これは夢でしょうか」

少年の問いに私は己の頬を抓って答えた。

「いや、これは現実だ」

そして私は妙案を思い付いた。


 私事の話で申し訳ないが、私には妻がいる。否、妻がいた。私が帰宅すると居間からTVの音と共に声が出迎えてくれるのが常であったが(そして彼女はソファに寝そべって菓子を貪りながら、仕事から帰ってきたばかりの夫にあれやこれや命令する、いや、したものである。断ると発情期の猿に負けず劣らずキーキー叫ぶので(「パパに言ってあんたの首を切らせるわよ!」)嫌でもやるしかなかったのだ)、居間はおろか家全体からも人の気配を感じない。その理由を私は知っている。いつものように靴を脱ぎ、居間のドアを開け、(これは今までに無いことだが)電気を付ける。居間のソファには妻が無言で自分の頭を抱え、青ざめた表情で座っている。首の上には夕暮れ特有の虚無が乗っている。私は倉庫からブルーシートを持って来ると、血が付着しないように服を脱ぎ、妻の体を抱え上げた。妻の腕から頭が転がり落ちる。出血は大方止まっていた。妻の体をブルーシートの上に転がすと、手袋をして丁寧に包む。妙案とはこのことである。「赤」も死体の中にいるのはさぞかし気持ち悪かろう。幸いな事に首は切断されているのだから、その広い断面から自由に逃げ出せばよいのだ。流血の方も干乾びて何処かにへばり付くのは嫌に違いないし、それなら逃げ出すに決まっている。そうすれば家の中に跡が残ることもなし、死体から血が染み出てくることもなし、見つかる確率はぐんと下がるだろう。社会的にはどうだか知らないが、「赤」が逃げ出すという事件は私にとってまさに天の配剤だった。私は鼻歌交じりに人一人分の質量を包んだブルーシートを縛る。ロールキャベツのようだという洒落まで思い付いた。その心は? どちらも青((あお))で豚を包んでいるでしょう。今日の私は冴えている。首は居間のテーブルに安置し(後できっちり落とし前を付けてもらう為だ)、上機嫌で妻の胴体を車のトランクに運び入れようとした時だった。

「何? この人」

すぐ近くから声がした。耳の傍と言うより、耳の内側から。

「豚だって」「信じられないね」「反省もしてないよ」「後悔もしてないよ」「殺したのは自分なのにね」「政略結婚のくせに」「コネ造り」「確かに奥さんも横暴だったけど」「嫌なことは全部奥さんのせいにして」「自分はいい子ぶっちゃって」「偽善者」「サイテー」「ほんっとやな奴」「出て行っちゃおうか」「そうだね」「そうだね」「そうしようか」

そして私は気付いた。

体内の「赤」が逃げるとなれば、そのリスクは死者のみならず生者にも降り掛かるのだということを。

「待て、待ってくれ。お前たちが出て行ったら私は死んでしまう」

「奥さんも死んでるじゃない、いいでしょ」

「それとこれとは話が別だろう。大体悪いのは妻で」

「じゃあね」

身体の内側でぞわり、と何かが動く感触がした。耐え難い感触に悪寒と吐き気を催し、私は横へと倒れ込む。「何か」は、私の体内の「赤」は、ぶるぶると躯を動かし、体中のありとあらゆる穴から外へと流れ出てゆく。最早これまでだった。私の視界は「赤」に埋め尽くされて行き、

「貴方が最後に見るものが私? 冗談じゃないわよ。反省でもしてれば」

突然「赤」が視界から消えたかと思うと妻の醜悪な顔が現れ、嗚呼睨まれている、でも悪いのはお前じゃないか、だってお前が……。

 耳元で女王が叫んでいる。

 そして私の意識は潰えた。


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