第六話by屋根の上のばよりん弾き
電話をしてきたお医者さんはまだ若く、結婚しているようには見えなかったので恐らく一人暮らし。そんな人の自宅に私だけが突然に招かれるということは、お医者さんが親切で真面目な人だと知っていても、些かの緊張を引き起こさずにはいられませんでした。お医者さんが鍵を開けている間、私はそのドアの前に立ちながら、少し体を強張らせていました。
お医者さんは、何故私を呼び出したのでしょう。三週間前に交通事故で死んだ弟、陽太のことで話があると言っていましたが、陽太の死については既に私達家族に説明がなされました。陽太は医師や看護師の目を盗んで病院を抜け出し、外を歩いていたところを車に撥ねられた、と。目撃者が救急車を呼び、直ちに元の病院に搬送されたが、陽太はその時点で既に失血が激しく、手術を待たずに死んだ、と。
陽太が死んだと聞いたとき、私は狼狽しました。それは父も母も同じでした。昨日訪ねたときはあんなに元気だった陽太が、私に楽しそうにその日の出来事を語って聞かせた陽太がこんなにも呆気なくいなくなってしまったなんて。陽太の死は不慮の事故であり、病人の管理を徹底しなかった病院にも、陽太を撥ねた車の運転手にも、そしてなにより、自分勝手に行動して病院を抜け出してしまった陽太自身にもその責任がある。そのことはわかっていたつもりでした。
しかし、私は陽太が病院を抜け出した理由に思い当たったとき、ある一つのことしか考えられなくなりました。陽太は死ぬ前の数日間、ある患者のもとに足繁く通ってはお喋りをしていたようです。その患者は陽太に、いろいろな話をしました。そしてその中には、陽太が入院していたここ一年程ほとんど目にしていなかった、病院の外に広がる世界の話も含まれていたのです。
陽太は生まれつき心臓が弱く、そう長く生きられないかもしれないと、陽太が生まれてすぐのとき両親は宣告されたそうです。どうにかして陽太を生かしてやりたいと願い、治療費を稼ぐべく懸命に働く両親の背中を見て、私と陽太は育ちました。陽太は物心つかないときから幾度となく手術と入退院を繰り返してきました。そのため、陽太は生まれて五年経っても、ろくに身の回りの世界を見たことが無かったのです。好奇心と悪戯心に満ち溢れた、そんな幼い子供が外の世界の話を聞いたらどうするか。聞いた話を実際に自分の目で確かめようと、陽太は病院を抜け出したのです。
それに気が付いた私は、陽太に軽々しく話をしたその患者、陽太いわくミカコというそうです、彼女のことを恨みました。もしもミカコが陽太に構わなかったら、話し相手になどならなかったら、陽太は病室で大人しくしていたかもしれない。突き放されたことに拗ねて、訪ねてきた私に甘えてきたかもしれない。そして、私はそれを優しく受け止め、そっと頭を撫でてあげたでしょう。そんなことを、陽太の命日以来何度考えたでしょうか。思考を繰り返す度、私のミカコに対する不満は高まっていきました。
そして、今日より二週間程前のこと、陽太が死んでからちょうど二日経った日のことでした。私達家族はお医者さんから説明を受けるために病院を訪れました。泣きじゃくり、眠ることもままならなかったそのときの私の目に、一人の患者さんの姿が映りました。女の人で、片手で松葉杖をついていました。ふとした拍子に、彼女はバランスを崩し廊下に転倒してしまいました。松葉杖が飛び、私の足元に転がってきました。その音を聴き付けた看護師さんが一人、近くの病室から出てくると、その女性患者に駆け寄りました。「まあ、ミカコさん。大丈夫ですか」と問うた看護師さんの声を聞いたとき、私はびくりとしました。ミカコというと、陽太が通っていたという入院患者の名前と同じです。私は松葉杖を拾い上げると、彼女の姿をまじまじと眺めました。決して目立たない、これといった特徴のない顔、松葉杖をついていたということはすなわち足が不自由だということ、陽太から聞いたミカコの特徴が、その女性には全て当てはまりました。
私が呆然としていると、ミカコは看護師の肩を借りて立ち上がり、辺りを見回しました。そして、私に目を止めました。正確には、私が握っていた松葉杖に。私は、体に棒でも入っているかのようなぎくしゃくした動きでミカコに一歩歩み寄ると、かすれた声で「どうぞ」と言い、松葉杖を差し出しました。ミカコは「ありがとう」と頭を下げると、私とは反対方向に歩いて行きました。両親に手を引っ張られるまで、まるで足が床とくっついてしまったかのように、私はそこから動けませんでした。
私と、陽太に外の話を聞かせたミカコは思わぬ形で遭遇したのです。陽太を通じてしか存在を私に知られていなかった想像上のミカコは、このとき初めて、実体を持った現実のミカコに変わりました。私の中のミカコが明確に形を持ってしまったことで、それは同時に、私のミカコへの恨みがより一層、激しく高まったことを意味していました。あんな凡庸そうな女の軽率な行動が、陽太を死に誘ったのだ。そう思うと、どうしようもなく私は悲しくなりました。
私のミカコへの恨みがただの逆恨み、八つ当たりにすぎないことは心のどこかでは理解していました。陽太はミカコ以外にも、他の患者さんと仲良くなってはお喋りしてもらっていたようですし、必ずしもミカコの話が一連の事件の引き金となったとは限りません。しかし、最愛の弟を失った私の悲しみは、ミカコを自分の不満、苛立ち、数々の負の感情の捌け口とすることでしか解消できませんでした。お前のせいで陽太は死んだ、陽太を返せと心の中で彼女を罵るしか、私にはできなかったのです。
一週間前に病院を訪ねた際にエントランスでミカコの姿を見たとき、私は衝動的に彼女を押し倒すと、がむしゃらに彼女を叩きました。彼女からしてみれば、いい迷惑だったことでしょう。突然に少女に殴打された挙句、口汚く罵られたのですから。あの出来事は、悪いのは私です。しかしあの日以降、私はそれまでと比べてずっと平静に振舞えるようになりました。人を傷つけておいてなんたる言い草かと自分でも呆れ、自分のことを嫌な女だと重々承知していますが、事実なのです。他人を侮蔑するよりも、未熟な自分自身を卑下する方がよっぽど気が楽だと気付いたのです。
だから私は今日ここへ来ると決めたときから、たとえ陽太のことで何を言われても冷静に努めようと誓っていました。しかし、その誓いは早くも打ち砕かれました。お医者さんに案内されて通されたリビングのソファには、ミカコの姿があったからです。