第五話by猿。
私の実家は山に囲まれた盆地にあり、父と母、それから6歳下の弟・大貴と4人で暮らしていた。大学に入学と同時にこっちに出てきたから、いつの間にか6年もの月日が経っていたようだ。
私たちは農業をやって生計を立てていた。取りたての野菜を地元の市場で売ったり、東京の店に直接送ったりして、中々人気のある農家だったと思う。それも父が厳格で、妥協を許さない性格だったからだろう。
小さいころから全力を尽くすことを求められた私は、やりたいことをやらせてもらえなかった。父の言いなりにやらざる負えなかった頃を思うと、やはり父は嫌いだ。そして二度と会いたくない人物でもある。
母はそんな私を、いつか自分の為になるからと言って慰めてくれた。父が居ない時には、私を好きなようにさせてくれて、そのバランスがあったからこそ高校時代まで私は頑張ってこれたのだろう。結局、その生活に嫌気がさして逃げ出してしまったわけだけど。
あの頃。高校生だった私は、世間がこんなにも大変だという事を知らなかった。今よりも大変なんだろうなぁって気持ちがある中で、早く大人になりたいという気持ちも確かにあった。
お酒飲めるし、いっぱい遊ぶためのお金を稼げる。早く自立して都会に行きたいな。なんて気持ちが胸を占めていた。
全く、当時の私の頭を殴ってやりたい。大人になって良かった事はあっただろうか。少なくとも憧れていた世界では無かった。
お酒は飲める。でも、大人が酒を飲む理由を知った。
仕事について金を稼ぐ事も出来た。遊ぶ時間なんてどこにもないけど。
挙句の果てに、都会に出てきてこんな怪我までしてしまったではないか。
そして、また繰り返してしまった。
陽太君。あの女の子は、私が陽太君を"殺した"と言った。あの一言を聞いた瞬間に大貴の事を思い出した。私が、都会に来ることになった直接の原因を。
晴れた夏の日。私は大貴と一緒に川で遊んでいた。あの日は父が東京に出ていて、母が外出を許してくれたのだった。正直なところ、グダるような暑さの中で勉強しろと言われても、何も頭に入ってこなかったから、母の許しが貰えなかったとしても遊びに行っていたかもしれない。
その年に大貴は小学6年生になっていた。受験を控えていたため、私と同じように勉強漬けの日々を送っていたのだが、やはりあの暑さには堪えたようだった。
その川は私が小学生の頃から遊びに来ていて、自分の庭のように思っていた。どこの流れが速いとか、ここが深いとか、そういう事も把握しつくしているという自負があった。大貴も川に来るのは初めてじゃなかったし、私がここは危ないからと昔から言っていたので、いつも通り何の心配もなく川に向かったのだ。
私は川辺に座って釣り糸を垂らし、大貴は水着になって泳いでいだ。木陰に座って釣りをするのは気が休まって落ち着いた。谷間を流れる涼しい風で、体が洗われるような気がして、あの空間が一番リラックスできた。
こう思い出すと、当時の私がどれほどきつい生活をしていたのかがよく分かる。これが普通だと思い込んでいたのだ。間違いに気が付いたのは大学に入ってからだった。
昼頃から釣りや、ダイビングを始めて、帰るころには空が赤くなり始めていた。10匹程度の魚が釣れ、夕飯の分は十分だった。
「大貴、そろそろ帰ろうか」
頃合を見計らって、私は大貴に声をかけた。
「ねぇちゃん、ちょっと待って!今でっかい魚が目の前を通ったんだよ。こいつ捕まえてかないと!」
「もう十分な魚は取れてるからいいよ。早く上がってきな?」
「でも...!!!あ、あいつ!!」
水面に顔を出した大貴は興奮していて様子で一点を見つめていた。私がいるところからは見えなかったが、そこに目的の魚がいたらしく、私が声をかけようとすると既に潜った後だった。
しょうがないので近くの岩に腰かけて、大貴が戻ってくるのを待つ。時折、水面に水しぶきが上がり、死闘の様子が見て取れた。
しばらくして大貴が顔を出して、両手に抱えた大きな魚を私に見せつけてきた。
「ほら、ねぇちゃん!でっかいでしょ!!」
「はいはい。早く帰るわよ?早く上がってきなさいな。そろそろ父さん帰ってきちゃうかもしれないじゃない」
「ゲッ」
大貴はやばいって顔をして、急いで川から上がろうとした。
空はもう暗くなっていて、本当に父さんが帰ってくるかもしれない。私も急がないと、何てことを、確か考えていたはずだ。
目の端に巨大な丸太が映ったのは、そんな時だった。
「大貴!逃げて!!」
「え?」
咄嗟に叫んだ。暗くなってきた森の中で私が丸太を見つけることができたのは奇跡だったように思える。でも、当の大貴には目に入らなかったようで、私は大貴の頭に丸太がぶつかった瞬間を確かに目にした。
川に飛び込んで大貴を探したのだけど、気が動転した私には見つけることが出来なくて。次第に意識が薄れ、気が付いたら元の川辺に横たわっていた。
夢だと思いたかった。が、濡れた私の服が、散らばった魚たちが、そして大貴が捕ったはずの大きな魚が、私に現実を押し付けてきた。
家についた時、私が両親に何を言ったのかは覚えていない。涙を流しながら言ったそれは、聞き取れなかったかもしれない。それでも私の姿の異様さや焦り方、大貴がいない事から事を察してくれたのだろう。父は家を駆けだしていき、母は私を家の中に入れて優しく撫でてくれた。私はただ泣きじゃくる事しかできず、ただひたすらに「ごめんなさい。ごめんなさい」と謝る事しかできなかった。
いつの間にか寝てしまったようで目が覚めると、そこは病院の様だった。
その後、医者の診断を受け、体に大きな外傷がない事を確認した私は、すぐに家に帰った。家に帰ると父と母と一緒にリビングで話し合いが開かれ、あの夜に何があったのか話してほしいという事だった。正直、急すぎると思ったし、これが入院していた人に対する態度かと思ったが、そこに大貴がいなかった事から、私は何故知りたいのかを理解できた。私はあの日の事を覚えている限り話した。父は表情を変えず、母は涙を流しながら私の話を聞いていた。私がすべてを話し終わってしばらく誰も口を開かなかったが、おもむろに父が口を開いた。
「お前が大貴を殺したんだな」
父の言葉に、返す言葉が浮かばなかった。それが最もショックを受けているだろう人に向ける言葉かと思う一方で、事実を突きつけられている気がしてならなかったのだ。
それ以来、父とは口をきいていない。母からは「まだ大貴が見つかっていない」という事を聞いたが、、あの目の奥にも父と同じ軽蔑の色が浮かんでいるようで、やはりそれ以上話すことは無かった。部屋にこもる日々が続き、勉強ばかりの日々を送った。。早くこの家から、街から出ていきたい。その一心で半年をやり過ごし、両親に相談もせず、東京の大学への進学を決めた。出発の日になってしばらく帰らない旨の手紙を書き残し、東京へと出てきたのだ。
あの家から逃げ出したくて、大貴の死を認めたくなくて東京まで出てきた。今となっては、両親に会いたくない気持ちは健在だが、大貴の死を認められるくらいの余裕は出来ている。
そして今、私はまたやってしまったらしい。担当医の方は「私だけの責任じゃない」と言っていたけれど、それでも私に責任の一部はあるのだ。
あの女の子からしたらはた迷惑な話かもしれない。けど、私も弟を亡くした身だ。彼女が少しでも楽になれるなら、私にできることは何かあるのではないだろうか。あそこまで私が憎まれているのが、弟に外の話をしたから、だけだとは到底思えない。その結果、陽太君が死んだのだとしても、きっと何かの理由があるように感じた。
彼女の胸の内にあるしこりを取ってほしい。あの医者がそう言ってきたのだから、病院のカウンセリングではどうにもならない、私と増田さん間の問題があるという事なのだろう。
何故それを彼が知っているのかは分かりかねるけど。それでも、そういう事なら私にできる最善策を尽くすまでだ。
階段を上がってくる音が聞こえてきた。どうやらあの医者が増田さんを連れてきたみたいだ。
鍵を開く音がして、ガチャと、ドアノブが回された。