第三話by屋根の上のばよりん弾き
一週間ぶりに光を得た私の目にまず飛び込んできたのは、サングラスを通してやや黒ずんで見える白い壁だった。サングラスをしていても、しばらく闇の中にいた眼球には少し刺激が強かったらしく、私はやや目を細めた。
「まだ少し眩しいと感じるかもしれませんが、じきに慣れます。しばらくそのまま、目を開けていてください」
担当医はそう言うと、手に持っているクリップボードに何やら書き込みを始めた。書いている内容は私からは見えなかったが、おそらくカルテだろう。視線を下げると、布団から少しはみ出た、白いギプスをはめた足が見えた。
ようやく目が慣れてくると、私は増田陽太という名の少年のことを思った。彼はもしかしたら今日にでも会いに来てくれるかもしれない。ついに彼の少年と互いに目を合わせて話せると考えると少し嬉しくなった。
「どうやら目に異常は無いようですね。あと一週間ほどで包帯を取り、リハビリを行いたいと思います。しばらくは移動は車椅子になります」
女性看護師が一人、折りたたんだ車椅子を携えて病室に入って来た。それを手際よく組み立てる彼女の隣で、担当医が「何はともあれ、異常が無くて安心しました」と穏やかに微笑みながら言う。
他の担当患者の回診があるという担当医が去ったあと、私に簡単な車椅子使用のレクチャーをすると女性看護師も病室を後にした。
視力が戻ってから十日が過ぎた。予定通り、三日前に足の包帯とギプスは外れ、今はこれまた予定通り、リハビリに従事している。私のリハビリをサポートしてくれている件の女性看護師いわく、あと四日ほどで退院できるそうだ。これも三週間前、意識が戻ったときに言われた担当医の言葉通りだった。これは勿論喜ぶべきことであるが、上手くいきすぎて怖いような気もした。
しかし、あと四日で退院ということは、増田陽太に会えるチャンスもあと四日しかないということだ。彼は私の視力が戻って以来、一度も姿を見せていない。あれから一週間以上が経っているのだから一度くらい私の前に現れてもおかしくなさそうなものだが、一向にその気配は無い。
もしかして私が聞いた彼の声は幻聴だったのではないかとも思ったが、そんなはずはないとすぐに否定した。視覚情報が無くとも、あれは確かに人間の声だったし、何よりも、私が増田陽太だと認識できたものはその声だけなのであり、それを幻だと否定するのは、なんだかとても恐ろしいことのようにも思えたのだ。
次の日、回診に来た担当医に私は意を決して「増田陽太という五、六歳の男の子の患者はいますか?」と訊いてみた。担当医はそのときだけ僅かに冷たい声で「患者の個人情報は教えられません」と返してきた。去り際の社交辞令は、いつも通りの穏やかな声に戻っていた。
私が覚醒してから三週間後、視覚を取り戻してから二週間後、車椅子に頼らなくなってから一週間後、退院の日はやって来た。松葉杖をついた私は病院のエントランスで担当医と話していた。
「退院おめでとうございます、沼田さん」
「ありがとうございます。これも先生の丁寧な治療のおかげです」
そう言うと、担当医は苦笑しながら言った。
「舌の根も乾かぬうちに言うのもなんですが、退院後の経過もチェックしたいので、一週間に一度はまた私のもとに来てください。日常生活の何気ない行動が、治りたての脚に負荷を与えることもありますから」
最後の最後まで、丁寧な説明をする。ずっと思っていたが、私の担当医はやはり相当に真面目な性分のようだ。
「わかりました。三週間、お世話になりました」
頭を下げた私の後ろで、エントランスの自動ドアが開いた音がした。すると、顔を下げていても担当医の体が強張ったのがわかった。何事かと振り向くと、そこには三人の親子連れがいた。三十代半ばと思しき夫婦と、制服に身を包んだ中学生くらいの女の子だ。特に目立つところのない、どこにでもいそうな家族だったが、彼らの顔には憂いが窺えるように思えた。
少女がこちらを向いた。すると、彼女の目は大きく見開かれた。その体が固まったかと思うと、「増田さん」と夫婦のもとへ向かう私の担当医とすれ違うように、少女は一直線に私に向かって来た。少女は私に掴みかかった。片足と松葉杖で体を支えていた私はなす術なく、少女とともに病院の床に倒れこんだ。担当医と件の夫婦が血相を変えて駆け寄ってきて、彼女の両親によって無理矢理私から引きはがされるまで、少女は私の胸を拳で叩き続けた。
突然の事態に戸惑う私に少女はなおも掴みかかろうとしたが、がっちりと父親に羽交い絞めにされた彼女は虚しく、激しく足をばたつかせた。そうして、担当医の手を借りて起き上がった私に、少女は血走った目を見開くと、叫んだ。
「あんたが陽太を殺したんだ!」