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戦歌の姫君  作者:
アズナブール編
1/4

新シリーズ開幕です。どうか気長に、彼女と彼の旅路にお付き合いいただければ幸いです。

話の設定上、『死』が絡む強めの言葉が多用される可能性があるので、苦手な方はお戻りください。


ちなみに小説タイトルの読みは、「いくさうたのひめぎみ」です。

 手にしたナイフの先が皿に当たり、かつんと音を立てた。その音で、ジークは自分が少なからず動揺していることを知る。

 口に含んだ温野菜の欠片を咀嚼して呑み込み、手にしていたナイフとフォークをテーブルに戻す。それから、改めて料理の皿の横に目を向けた。


 よく使いこまれた重厚な黒いトレーの中には、ぺらりと薄い紙が一枚。そこにははっきりと、『離婚届』の文字があった。

 ジークはかすかに眉を寄せ、一度に二十人は会食できるであろう長テーブルの上座に目を向ける。その端にはもちろん、この屋敷を所有する男が座していた。


 彼の方は彼女に目も向けず、本日の夕食のメインである牛肉のパイ包みにナイフを入れていた。鉄面皮には味の感想は現れていないが、味気ない書類に食欲を奪われた身としては、少し、いやかなり恨めしい。


「これは、私はお役御免ということでしょうか」


 訊ねると、ようやく男は顔を上げた。


 隙なく整えられたダークブラウンの前髪の奥で、温度のない灰色の瞳がジークを射る。端正な細面は美貌と呼んで良かったが、際立つ肌の白さは見る者に冷たい印象を与える。常に黒ずくめの服装と相まって、彼が『吸血鬼公』と呼ばれていることは公然の秘密だ。

 彼は瞳同様、感情を感じられない声で淡々と言った。


「もともと、今回の契約は互いの利益のためのもの。隣国との紛争に決着が着いた今、貴女(あなた)との婚姻に意味はない。双方にとって妥当な結論だと思うが」


 向けられた瞳を見返して、内心でその通りだ、と納得する。ジークと彼との関係は、文字通りの政略結婚だった。その必要性がなくなれば、破棄されて当然。

 それは十分に理解しているのに、二月(ふたつき)ぶりに晩餐の席で顔を合わせた夫婦の会話がこれだとは、さすがに予想していなかった。

 ため息をつきたくなるのを堪えて、なるべく平静な声を出すように努める。


「決着、ですか。ということは、今日の隣国との交渉は首尾よく進んだようですね」

「領土の線引きは紛争前の状態に戻し、互いに今後一切の手出しはしないとの盟約を結んだ。これで終結したとみていいだろう」


 どうやら今日という日は、約二十五年にも及んだ国家間の紛争に幕が下りた、記念の日となったらしい。

 事の発端は国境近くにある鉱山の所有権をめぐる争いだったらしいが、鉱石が尽きてからも互いへの不信感と敵意は収まらず、だらだらと諍いが続いていたらしい。先に引いた方が負けだという、愚かすぎる意地のために。


 それが、先代の大公による統治時代のこと。その死を受けて代替わりしてから三年で、彼は紛争を終結させたことになる。

 それならもっと嬉しそうな顔をしてもいいだろうに、と思って窺うが、当代大公閣下のユーグ=ロベールは無表情を欠片も崩すことなく続けて言った。


「こうして早期に事が済んだのも、貴女の存在があったからだろう。それには深く感謝している。このアズナブールは、貴女に救われたと言ってもいい」


 そうまで言ってもらえることをしただろうか、とジークは自問した。彼との結婚生活は三年。その間にはまあいろいろなことがあったし、あるべきことがなかったりもしたが、それは普通ではない事情がジーク自身にあったせいでもある。

 そして、その『事情』が彼の感謝の対象であることも複雑な気分に拍車をかける。それは決してジークの意志で動くものではなく、それゆえに自分の功績だとは考えにくい。

 感謝されても憎まれても、それが自身の一部なのだということはよく理解しているけれど。


 だが、と続けた彼の声に、ジークは思考を引き戻された。


「争いが終わった今、貴女の存在は都合が悪い。火種や不信を生んでも、益にはならない。貴女には申し訳ないことだが、事実だ」


 歯に衣着せない物言いに、部屋の隅に控えていた壮年の侍従や給仕たちが息を呑む気配がした。けれど、ジークはそんなことに腹を立てるつもりは毛頭ない。にこりと笑んで、首を振った。


「いいえ、結構なことです。戦なんてないに越したことはありませんもの。それに、私の立場は弁えています。閣下がそうお決めになったのなら、逆らう理由はありません」


 そう言って侍従を手招くと、彼は慌ててやって来てトレーの横にペンやインク壺の一式を用意した。その間に食べかけの料理の皿は給仕の手によって下げられる。ほかほかと湯気を立てる夕食を名残惜しく目の端で見送って、ペンを手に取った。


 決まりきった流れを辿るように夫の名の横に署名し、ペンを戻す。トレーを恭しく受け取った侍従が夫に手渡せば、契約の解消は済んだも同然だ。国内に関して言えば、大公である彼には一切の裁量権がある。自身の婚姻関係についてだって例外ではない。

 彼は書類を手に取り一瞥して、小さく頷いた。その顔からは安堵も悲しみも、感情らしいものは何も読み取れはしない。三年の結婚生活の中でよく見慣れた無表情のままだった。


「ご両親の元には、日のあるうちにすでに書簡を持った使者を送ってある。とはいえ、貴女の故郷までは距離があるし、迎えが来るまで時間がかかるだろう。それまでは今までどおり、この屋敷で過ごしてもらって構わない」


 もはや利益ももたらさず、ただ無駄飯を食らうばかりの小娘を置いてくれるとは、随分親切な話だ。しかしジークは、即座に首を振った。


「いいえ。まず間違いなく、実家からの迎えはありません。使者に“離縁は承知したから自力で戻るように”と言付けを持たせるくらいがせいぜいでしょうね」


 “自給自足”と“自立”。非常識だと思われても仕方がないが、それが彼の国における鉄則である。それが王族から国民にまで根付いた精神である以上、三年前に嫁いだ娘に“あの”両親が迎えを寄越すことなどありえない。


「ご心配なく。早いうちに、こちらは辞させていただきますから」


 しかし、と戸惑った声を上げたのはたった今“元”夫となった男ではなく、空のトレーを抱える侍従だった。人の好さそうな顔を曇らせて、瞳に困惑の色を滲ませている。


「たとえそうだとしても、女性一人で長旅をするのは不可能です。幾人か供を連れて……」

「供? 不要ですよ」


 軽く肩をすくめると、金茶色の長い髪が肩から前に流れる。


「これでも護身術は一通り身につけています。そもそも、私に手を出して無事ですまないのは相手の方でしょうね」


 無意識に苦笑が浮かんだが、見る者にはきっと皮肉げに見えただろう。それを自覚しながら室内の者たちを見回して、最後に元夫と視線を合わせた。


「――“死神憑き”の私を脅かすものが、あるとでも?」


 その言葉に、室内の空気が瞬時にこわばる。今度は心配や不安によるものではなかった。その呼称の意味を知らないものは、この場にはいない。それを見越して、わざと口にした。

 唯一、眉一つ動かさなかった男は相変わらずの淡々とした声で、何事もなかったかのようにジークに言った。


「貴女の言い分は理解した。しかし、それとこれとは別だ。私が娶り国に利益をもたらした女性を、用が済むなり単身で放り出したのでは外聞が悪い。国の面子というものもある。理解してもらえると思うが」


 彼の言葉は率直で、ともすれば悪意にも聞こえる。顔を引きつらせる侍従たちを尻目に、ジークは少し考えてからあっさりと頷いた。


「まあ、それもそうですね。こちらにご迷惑をかけるのは、私としても本意ではありませんし。では、お言葉に甘えて、幾人か護衛をつけて送っていただくということでよろしいでしょうか」

「構わない。早速、明日には手配しよう」

「感謝します、閣下」


 ジークはするりと席を立つと今度は意識して笑顔を浮かべ、元夫に体を向けて一礼した。


「この度は、“お買い上げ”ありがとうございました。少しでもお役に立てたのならいいのですけれど。私はいずれここを離れますが、どうぞ健やかにあられますように」


 無表情な灰色の瞳を合わせた彼は、頷いて短く応えた。


「ああ。貴女も」

「ありがとうございます」


 挨拶に次いで、彼女はちらりと彼の目の前に並べられた皿に目を向ける。


「ところで、夕食が途中だったので続けてもいいでしょうか?」


 さすがは一代で商業国として国を立て直した大公の屋敷とあって、食材は豊富かつ料理人の腕もいい。つやつやした赤ワインソースのかかった牛肉のパイ包み、新鮮な魚介類がふんだんに入ったスープなど、本日の夕食も手が込んでいてとても美味だった。できることなら余すことなく、しっかりと味わっておきたい。

 ――という内心の情熱が伝わったのか否か、元夫は侍従に目を向けて簡潔に命じた。


「温め直してやってくれ」

「さっきので構いませんよ。冷めても美味しいですし」


 口を挟むが、彼はにべもなく言った。


「料理人の考える最良の状態で食するのが、作った者への敬意にもなる」


 それには納得がいって、侍従に顔を向けた。


「なるほど、一理ありますね。では温め直してもらえますか?」


 ひとつの夫婦の終わりとは思えないほど和やかかつ呑気な会話を交わす二人に、控えた侍従は小さくため息をついた。


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