小説家
あの人のやうになりたひと思ふのではなく
あの鳥のやうになりたひと思ふ
私はそふいふ人間でありたひ
(冬耳 創岩『夜猫の瞳と月と僕』より)
今回は冬耳 創岩の処女作『夜猫の瞳と月と僕』の冒頭に書かれた名言である。
『夜猫の瞳と月と僕』は、主人公である谷津時が酒を呑んだ帰り道、夜道を歩いている時に暗闇に浮かぶ二つの光を見つける。何かと思い、目を凝らして見ると、暗闇に薄っすらと浮かぶ輪郭で谷津時は、それが猫であることを知る。そこで二つの光は猫の瞳であることに気付く。翌朝、奇妙な事件が起こる。
物語はこのようにして始まる。
最初は、何も考えなかった谷津時は、また酒を呑んだ帰り道、二つの光に見つめられる。そして、その翌朝には、また新しい奇妙な事件が起こる。ただの偶然であると思う谷津時ではあるが、またある時の酒を呑んだ帰り道に、またもや二つの光に見つめられる。何も起こらないと自己暗示をしながら家に帰り眠りにつく谷津時。しかし、翌朝になるとまたもや奇妙な事件は起きていた。ここまで偶然があるのかと、1人悩む谷津時。こんな馬鹿げた話を誰が信じるのかと、1人悩む谷津時。
という具合に物語が進んで行く『夜猫の瞳と月と僕』であるが、この小説が有名の訳は、よく「黒猫を見ると不吉なことが起こる」という言い伝え?都市伝説?をモチーフにしているからである。
しかし、ある人は、この『夜猫の瞳と月と僕』が、きっかけで黒猫の言い伝え?都市伝説?が広まったというのである。諸説あるが、私はこのように分析している。
多分、黒猫の言い伝え?都市伝説?は、この『夜猫の瞳と月と僕』の以前からあったと思う。何故なら冬耳創岩は、その言い伝え?都市伝説?を自分なりに解明したから、この物語を書いたのだと思うからである。
まず、冬耳創岩の時代は、24時間明かりを発しているコンビニなどは勿論のこと、街灯で夜道を照らすものも全くと言っていいほどなかったであろう。それに、黒猫の言い伝え?都市伝説?が、いつ頃から取り沙汰されたかは知らないが、一つ言えることは時代を遡れば遡るほど、そんな街灯や提灯や火の松明などなくなるであろう。つまり現在とは違い、夜になるとほとんど真っ暗になるのである。
では、もしも、そんな暗闇の中で猫を見るとどうなるだろう。答えは簡単です。全てが黒猫のように見えるのです。
確かに、わかります。今から説明します。
暗闇に猫を見ると全てが黒猫のように見えるのは、わかった。だからと言って、その暗闇の猫を見たからといって、不吉な事が起こるという方程式は成り立たないと言いたいのでしょう。
では、次に猫の行動を考えましょう。猫は、あまり人がいない所にいそうな気がします。犬とは違い、あまり人懐こいとはいえない猫は、人気がいない所を好む気がします。
以上の2点を踏まえると、人気が全くない暗闇の道を歩いていると、猫を見つけ、月明かりだけで見る猫は真っ黒。
こんな場所を歩いているのだから、強盗に合いやすいし、強姦される可能性も高い。昔だったら山賊や、辻斬り的な人殺しだってされるかもしれない。
つまり、よく「黒猫を見ると不吉なことが起こる」というのは、人気のない道を歩いていたら猫を見かける。そういう場所は、犯罪者達にとっては絶好の犯罪者スポットなので不吉な事が起こりやすい。
と、冬耳創岩は伝えたかったのではないだろうかと、私は思う。
ちなみに、この『夜猫の瞳と月と僕』の話は、次に2つの光を見つけたら、捕まえてやろうと決意をした谷津時。そして、再び2つの光を見つける。しかし、今回は2つの光の他に、もう一つ大きな光があることに気付く。少し怯む谷津時であるが、勇気を振り絞って、2つの光に飛び込み捕まえようとする。
ポチャン
そこには、先程あった2つの光はなくなり、一つの大きな光だけが揺れながら光っている。
谷津時は池に飛び込んだのである。
谷津時は猫である。