マラソンランナー
前に人が走っていれば抜くし
誰も走っていなければ記録を抜く
ただ唯一、手だけは抜けなかった
宇治 登(マラソン日本代表)
これは、宇治登選手が引退する時に言った名言である。
1961年2月に行なわれたオリンピック選考レースで当時の世界新記録を樹立した宇治登選手。彼はこの1つ前に走ったフルマラソン一名古屋いいがやマラソン(1967年に廃止)で日本新記録を出すまでは全くの無名選手であった。それもそのはず、フルマラソンに参加したのがそのレースがはじめてだったからである。では、何故それほどの選手が今まで注目を浴びなかったのか。宇治登は高校時代、駅伝選手であった。ただ、出場機会は全く無く、ずっと補欠の選手であった。高校卒業後、宇治はもちろん実業団からは声が掛からず、そのまま大学に進学するが1年も経たずして中退。ここからが宇治登のまさにマラソン漬けの人生が始まる。宇治は大学中退のあとをこう振り返った。
「自分には走ることしかない。とにかく走って走って走りまくった、標準をオリンピックに定めそれまではとにかく3年間レースには出ずとにかくひたすらと走った」と言う。
そんな宇治の有名な練習法が極限マラソンである。まず、とにかく走る。疲れるまで走る。もう限界と思ったそこからフルマラソン、42.195キロをタイムを計り走ったという。記者がこの話を聞き「最高タイムはいくつですか?」と聞いた。
宇治はこう答えた。
「全くと言っていいほどタイムは縮まらなかった。むしろ、殆ど変わらなかった。走れば走るほど速く強くなっていくの感じていたけど、この時、自分はこれ以上は行けないのかと思った。ただ、ある時、気が付いたんです。この練習をするときは早朝から一日潰すつもりでやりました。名古屋のレースの一年前ぐらいから約半年間10回やったんですけど、7回目に走り終えたあとでしたかね、タイムを見たら相変わらず同じようなタイムでした。落ち込みながらも家に帰ろうと思った時に気が付いたんです。真っ暗だったんですよ。いつもなら明るい空が暗かった。つまり、タイムがいつもと変わらないのに夜になっていてたいうことは、その前に走った距離が長くなっていたからだったんだと気が付いたんです。その時は本当に嬉しかったですね。何が嬉しかったかというと、自分が毎回、その時の限界まで走っていたから最後の42.195キロが殆ど変わらないタイムになっていた事が…少し調子に乗った僕は最終的には朝まで、つまり一日中走ろうと思いましたけど、さすがに無理でした。」
ここまで走り続けた男がいただろうかと言うほどの話である。この話をした翌日には『練習の宇治』という言葉が生まれ流行語大賞にノミネートされた。
しかし、オリンピックの1ヶ月前に宇治登は車イス姿で引退会見を開いた。約4年間走り続けた宇治の両足は限界に達しており、歩くことすら出来なくなっていた。そして、この時に生まれたのが、あの名言である。
2レースしか走っていない宇治だが、前に人が走っていれば次々と抜いて行き、誰もいなくなれば記録を抜いて来た。しかし、練習の宇治である彼は唯一、手を抜くことだけは出来なかったようだ。
こうして、表舞台から全く消えた宇治登であるが20年後にハーフマラソンに特別参加したのである。歩くことすら困難と言われていたが、見事に完走をしたのである。そして、そのハーフマラソンが終わった3日後に宇治登は42歳と195日という若さで亡くなった。宇治登は人生というマラソンを見事に完走したのである。