この煌めきが手に入るのなら ~焦がれる想いの行く先は
「国境門を出ただけで、ここまで空気が変わるなんて……」
「国を護る結界からも同時に出ているからね」
今、二人の目の前に広がるのは、どこまでも続く荒野だった。
空気はからりと乾燥し、照りつける日差しが眩しく、目が痛む。
「道も建物も見えない、……このまま南に下っても、本当に何も無いの?」
黒馬の背から見渡す視界の先には、ただひたすらに薄茶けた地平が広がるのみ。生き物の気配すら感じられない。
「無い、と言えば無いかな。もっと乾燥して砂漠が広がるだけの土地だよ」
「オアシスは? 砂漠といえばオアシスじゃないの?」
「ここには……今は、何も無いんだよ。今はね」
「?」
「昔、本当に遠い昔、ここには蒼く輝くオアシスがあり、とても美しい国が栄えていたんだよ——」
◇ アナ 五歳
水盆の中にあるそれは、とても不思議な色をしていた。
雨上がりのあとに見える虹のような色彩を見せたかと思うと、夜空の星々が煌めいている。そうかと思えば、深く蒼い宵闇のような落ち着きを見せたりもする不思議な石。見つめれば見つめる程に不思議で美しく、いくら眺めていても見飽きることがなかった。
「じい、これは何?」
「天の主より授けられた魔石にございます、姫様」
アナは水底に煌めく石を目を丸くして見つめる。その黒い瞳は魔石に劣らず煌めいて美しい。
「手にとっても良いかしら?」
アナは水面に顔をつけんばかりに近づけて、世話係のじいやに尋ねる。
「姫様。それを手にしてよいのは、父君様のみ。我が国の王のみでございます」
「つまんない……」
「ささ、姫様、ご無理を言わず。祝いの贈り物が沢山届いております。あちらへまいりましょう」
じいやに手を引かれ、アナは誕生祝いの贈り物が積まれている部屋へと向かう。
だが、手を引かれてもなおアナの視線は水盆を見つめ、その中にある魔石を想っていた。
◇ アナ 七歳
「姫様、今年も贈り物がこんなに。各国の使者からの祝いのお言葉もたくさんいただいておりますよ」
侍女から贈り物の一覧を見せられるが、アナの表情は曇ったまま。
「いかがなさいました? ご気分がすぐれないとか……」
「違うわ。ねぇ、あの魔石。もう見せてはもらえないの?」
アナが今一番欲しいもの——それは五歳の誕生日に一度だけ見ることが許された「魔石」だ。
王宮深くの中庭に、王が自ら手入れをしなければならない「はじまりの水盆」がある。
アナが恋い焦がれる「魔石」は、その深い水底に静かに置かれていた。
砂漠の中にあるこの国では、水はとても貴重なものだ。国内のあちらこちらにある水場やオアシスがなければ、生命を繋いでいくことは難しい。
では、水場が枯れてしまう恐れはないのか。
それはこの王家が管理する「はじまりの水盆」がある限り、考えなくてもよいことであった。
一体どういう原理なのか、天の御業なのだから考えても仕方がないのかもしれないが、この「魔石」は滾々と貴重な水を産み出していた。
この魔石から湧き出した水は、水盆からあふれ出して庭の地下深くに潜り、その地下から国の各所にある泉やオアシスへと水を供給していた。
そして、この水盆を、いや魔石を扱ってよいのは国主のみ。
連なる王族たちは決められた時にのみ、見ることを許される。
王族の側にある廷臣たちは、契約を結んだ者のみ庭へ入る事が許される。
許されざる者が魔石に手を触れた時、この不思議な力は消え失せると言われている。
これはあくまでも伝承ではある。だが、この砂漠の国で水を失うことは、想像するだけでも恐ろしく、誰も試そうなどとは思わなかった。
「次に姫様が水盆の庭に入ることを許されるのは十歳の誕生日。もう少しお待ちくださいませ」
アナが涙目で訴えても、侍女たちは柔らかな微笑みでこう答えるのみ。
去年の誕生日にも同じ事を言われた。ならば今年は……と、涙を浮べてお淑やかに請うてみたが、全く意味がなかったようだ。
◇ アナ 十歳
(あの時と変わらない……)
水は滾々と湧き出し、水盆を溢れさせる。魔石の煌めき方は、相変わらず予測がつかない。虹色になったかと思えば宵闇色に。夕焼けの赤を示したかと思えばどこまでも透明にもなる。
(なんて不思議……)
アナは水盆の庭で魔石を見つめ続ける。
「姫様、触ってはなりませぬぞ」
じいやが今にも手を伸ばしそうなアナに声をかける。
「わかっているわ」
(わかっているわよ。わたしだって水が無くなったら困るもの)
そう、わかってはいるが、気になるものは気になる。欲しくないかといえば欲しいのだ。
五年間我慢した。次に目にするのはまた五年後。五年分、しっかりと目に焼き付けておかなければと、注意を受けながらも乗り出すように水盆を覗き込んでしまう。
じいやはアナの言葉に安堵してくれたようだ。ほっとして、これで心置きなく魔石を見ていられると考えていると、
「姫様、学舎ご入学のご準備は進んでおりますか?」と、話題をそらすかのようにじいやが再び話しかけてきた。
去年の終わり頃であろうか、アナは次の肆の節から隣国の学舎で学ぶことが急遽決まった。
学舎で決められている入学年齢は十一歳であるが、必ずというわけではない。講義についていけるのであれば、多少早く入学しても問題がないらしい。
隣国の学舎は、かの国の大神殿神官や騎士を希望する者が学ぶ場所であるが、街の中等科よりも高度な内容を学べるため、富裕層の子女や他国からの学生も受け入れていた。
アナはこの学舎へ入学するのであるが、当然自国から通えるわけもなく、学舎寮へ入ることが既に決まっていた。
そこで一つ問題があった。寮である。
学問のことはあまり問題ではない。仮にも国主の娘。日々教師がついている。
だが、姫であるゆえに、身の回りのことは全て侍女任せ。髪を梳かす、着替える、当然自身で行ったことなどなかった。
侍女を連れていけると甘く考えていたのだが、それはかの国から「否」と返答があった。たった一人でもと、再度願ったが「ここでは家名や身分は何も意味しません。皆と同じ生活が営めないというのであれば、受け入れかねるかと」と素気ない返事であった。
いっそ街に屋敷をかまえ、そこから通う話も出た。だが、更に話を聞けば学舎内での特別扱いは一切なく、神官たちの指示は絶対で、他の学生と扱いは一切変わらないので、そのつもりでいてほしいとも言われた。
市井の者と同じ扱い——身の回りのことは自分で行う。食事も食堂で皆と同じ。
それでもアナを学舎で学ばせると、父王の判断であった。
アナは最初にこれらの話を聞いた時、学舎へ入学する気持ちはまったく持てなかった。だが、国を治め率いるものに学問は有用であること。そしてかの国では「魔法」が学べることを聞くうちに、渋々ながらも受け入れる気持ちになったのだった。
それからは特訓だった。
侍女達にとっては日頃普通に行っていることを王女に教え、一人で出来るようにするという、まことにやりづらい日々。
そして、アナにとっては、今まで侍女任せで済ませていたことをすべて自分で行わなければならないという、彼女にとっては虐められている気分になる毎日であった。
「学舎で学ぶためだけなのに、何故このような不自由を我慢せねばならないの?」
「学舎、いえ、学びの場では身分など何も意味をなさぬもの。また、日常の不自由もまた学びの一つでありますぞ」
じいやはアナを諌めるが、アナの表情は不満に満ちたものだった。
◇ アナ十歳 玖の節
学舎は秋休暇である。
アナは久しぶりに王宮へと戻り、その快適さを満喫していた。
「もう、つまらない……。既に知っているようなことばかり。周りはわたしよりも年上のはずなのに、そんなことも知らない人ばかりで……」
「おや? そうなのですか」
侍女たちは微笑みながら聞いてくれているが、じいやは笑みを浮かべながらも軽く流しているように見える。
(真剣に聞いてくれてない……)
まぁ、確かに口ではああ言ったが、初めて学ぶものもあって、実は楽しい。薬草学に乗馬、この二つはその中でも特に興味深い。
薬草学では初めて見聞きする草花が多くあった。植生が違い過ぎるのだろう。
もちろんこの国の草花のことも教えられたのだが、様々な草花を見ることも、それをもとに薬やポーションが作られるという話も楽しくてたまらない。この後、秋学期が始まれば、薬草学の後半が始まるのだが、既に待ち遠しくて仕方がないのだ。
そして乗馬である。この国では馬は珍しい。以前他国の使者が乗せてくれたことがあるが、それだけ。この国では馬は常用されていない。商人が稀に持っているようだが、砂漠が広がるこの国では馬の力を存分に発揮できないからだ。
「ふんっ! じいの意地悪!」
半ば見透かしたようなじいやの言葉に、アナはうまく言葉が返せなかった。
◇ アナ十一歳 参の節
「じい! わたし、魔法が使えるようになったの!」
「左様でございますか、それは大変喜ばしいことでございますな」
「じい? わかっている? 誰もが使えるコーマの技(生活魔法のようなもの)ではなくて、本当の魔法よ。しかも聖属性の魔法が使えるようになったのよ!」
「かの国では神官の方々は皆治療魔法が使えると聞いております。姫様、神官におなりに?」
「もう! 何を言っているの。わたしはお父様のお手伝いをして、絶対にその跡を継ぐのよ! あの魔石を扱うのに相応しい王になるために、こんなに努力しているんだから!」
◇ アナ十一歳 玖の節
「見て! ほらこれ!」
アナがさっと掌を上に向けると、その上に炎の小さな塊が浮かぶ。
「ひっ」
侍女たちは突然目の前に現れた炎に驚いたのか、小さく悲鳴を上げてしまう。
怯える侍女たちの様子に、アナはまったく気遣いを見せなかった。
「火属性の魔法を使えるようになったのよ!」
驚かせたことを謝るわけでもなく、炎を乗せた掌を侍女たちに自慢気に見せ続ける。
火の粉がかかるのではと考えているのだろうか。身構える侍女たちの目の前で、炎の塊が小さく揺れ始めた。
小さな球形から蝋燭の炎のような形へふるりと変わる。今度は、すぼめた先から花が咲くように薄く広がったと思えば、小鳥のような姿へ形を変えた。
次々と変化するその様に、最初は怯えていた侍女たちも、徐々に近づき魅了されていく。
「ね、凄いでしょ? 学舎でここまでできるのはわたしだけなのよ」
「姫様は……火属性を神より賜ったのですか?」
この世界では誰もが魔力を持つが、属性を生まれながらに持つものはいない。神々より授けられるか、根気よく属性が発現するまでその属性の呪文を唱え続けるしかない。
当然神々から属性や加護を授けられるには何か神の気を引く必要がある。
「そうなの! 素晴らしいわよね! 神がわたしをお認めになったのよ」
アナは侍女の言葉にあの時の事を思い出す。
街を一人で散策している時、突然声を掛けられたのだ。
「君、属性、欲しくない?」
アナにとっては他国の首都。それだけでも物珍しいのだが、一人で出歩くこと自体が本来は有り得ないことだ。自国では到底許されるはずのない一人歩き。
最初はおっかなびっくりで、大神殿のまわりを少し歩き回るだけであったが、流石に長く暮らせば慣れが出る。最近は街の市場にも行くようになった。
そんな時に偶然目があった。本当にそれだけだった。すごく綺麗な人がいる、とぼんやり見つめていたら声をかけられた。しかもその言葉は先の言葉。
戸惑うアナに「ああ、ごめん。僕はニヒルム。一応、神様なんだよね。もう一度聞くけど、属性魔法を使いたいよね?」と再度問うてきたのだ。
もちろん憧れの属性魔法。使いたいに決まっている。反射的に頷くアナに「うん、素直でいい子だ。火属性をこれで使えるから」と、それだけを口にするとアナの目の前から忽然と消えてしまった。
アナ自身は、その時は何が起きたのかさっぱり理解できなかった。偶然目があった人が神だと名乗った。全く知らない名前の神だ。属性を与えてくれたと言っていたが、何か変わった気がするわけでもない。本当に神様なのだろうかと疑問も浮かぶが、忽然と消えた——転移魔法は神しか使えないと教えられている。
何か神ニヒルムの気を引くことがあったのだろうかと自問するが、さっぱりわからない。だが、もらえるのであればそれでよし、とあまり深く考えることはしなかった。
◇ アナ十二歳 参の節
「見て! 今度は水属性を賜ったの!」
アナは嬉しそうに言いながら、手のひらへ小さな水の珠を浮かべる。
それは「はじまりの水盆」にある「魔石」の模倣のようでもあった。虹のように輝いたかと思えば、闇夜に瞬く星々のように煌めいたり。輝きながらも形状を球形から立方体、立方体から木の葉へと。どれもそのまま宝飾品として留めておきたいほどであった。
それからもアナは学舎の長期休暇の度に王宮に戻り、その都度新しく身につけた魔法を披露した。
加えて錬金や魔法陣も学ぶアナは新しく作ったポーションや魔道具等を侍女たちに披露し、役に立てばと贈ったりもした。
最初はアナの魔法に驚き身構えていた侍女たちも、今ではそれを楽しみに期待するようになっていた。もちろんアナが時折手渡してくれるポーションや魔道具も喜んで受け取っていた。
◇
月日は流れ、四年間の学舎生活を終えたアナは、今は学舎の上位機関である学院で学んでいた。
学舎を卒業し神官見習いや騎士見習いになるものが大半だ。そもそもがそのための学舎なのだから。
だが、アナは神官や騎士になるつもりはない。いずれは国を治めるのだ。その時に役立つようにと、力を入れるのは魔法三学——魔法学・魔法陣学・錬金学——が中心である。アナは神から複数の属性を賜っていることもあり、魔法関連の学びをより深いものにしようと頑張っていた。
そんなある日、アナは国へと突如呼び戻された。
「どう……いうこと?」
「ですから、嫁ぎ先が決まったと。おめでとうございます、姫様」
目の前のじいやはとても嬉しそうに目を細めている。
「わたし、嫁ぎなどしないわ……だって……この国を、この国を出るつもりなど……」
アナは今じいやが口にした言葉の意味が理解できない。いや、ふるふると首を振ることで、今の言葉を追い払ってしまいたい。
アナとて自身が他国へ嫁ぐ可能性があることは認識している。
ただ、姉姫たちや妹姫たちはいずれも幼少時に婚約し、十一歳か十二歳程で国を出ていた。
だがアナは幼少時の婚約はなく、十歳で学舎に入れられた。扱いの違いは明らかで、このまま国に残り、いずれは国主の可能性もあるのではないかと夢想していたりもした。
(だいたい、いきなり嫁ぎ先が決まったなどというが、婚約は? そういう前段階はないの?)
混乱して黙り込むアナの周りでは、侍女たちが嬉しそうに話に花を咲かせている。衣装はどのようなものに、持ち込む身の回りの道具類はどうすれば、お相手の方はどのような方なのだろうかと、話題がつきる様子はない。
(お相手……そういえば誰?)
「じい、わたしは何処へ行くことになるの?」
「大海を渡った先のお国でございます。国主様は姫様が魔法全般に長けていらっしゃることを聞き及んで、父君にお話を持ちかけられたと伺っております」
じいやの話では、お相手はその国主様、アナよりも二回りほど年上らしい。正妃扱いではあるが第二妃での輿入れなので、難しいことを考えずに来てくれればよい、と先方は言っているようだ。
(海を挟んだ向う側……)
それはこの国へ戻ることはとても難しいことを示している。いや、たとえ里帰りが出来たとしても「もう王族ではない」のだ。ただの「客人」である。
……
……
……
「魔石」を二度と目にすることができない……
そこに考えが思い至った瞬間、頭の中が真っ白に染まった。
遠ざかっていく侍女たちの歓声の中、アナの視界は崩れ落ちるように暗転していった。
◇
アナは一節ほど床についた。高熱にうなされ、熱が引いた後も衰弱が激しく、なかなか床を離れることが出来なかった。
失った体力を回復するため床についている間、アナはひたすら書物を読み耽っていた。まるで何かに憑かれたかのように。
侍女たちやじいやが心配して声をかけるも「わたしは大丈夫。他国の妃になるのであれば、もっと学ばなくては……」と薄っすらとした笑みを浮かべて答えるのみ。
ベッドの周りには嫁ぎ先からの見舞いの品が山と積まれ、温かく心のこもった見舞いの手紙も途切れることなく届いていた。
それらを時折見つめるアナの眼差しは何の感情も浮かべておらず、ただ「そこ」を見ているだけのものであった。
床から離れた後も読書にのめり込む日々は続く。あまりの根の詰めように、別の病でまた倒れてしまうのではと心配されるのだが「わたしは大丈夫」その一言で常に会話は切られてしまうのだった。
ある日、珍しくアナがじいやへと言葉を掛けた。
「婚約者殿にお見舞いのお礼をしたいのだけど……」
アナの言葉にじいやは一瞬固まるが、すぐに満面の喜びで、「姫様らしい文用の紙をご用意いたします。何か一緒に御礼の品を用意せねばなりませぬな」とあれこれ世話を焼こうとし始めた。
「じい、御礼の手紙なのだけど……文用の紙やお礼の品も、わたしが錬金で創ったものにしたいの……」
アナの言葉が余程意外だったのか、じいやは大きく目を見開きアナを見つめ返してきた。
「それはそれは。それで、一体何をお贈りに?」
「本当に些細なものなのだけど、出来上がるまでは秘密よ」
その言葉にじいやはやっと安心したと言わんばかりに、目尻も眉も下げて微笑みを浮かべていた。
このやり取りの後、アナは早速錬金を行うと宣言し、錬金用の部屋へと籠ってしまった。
再び根を詰めるアナに対し、周囲は心配するのだが、今回は嫁ぎ先への御礼の品を錬金しているということで、先日までに比べれば周囲の心配はそれほど大きくはなかった。
◇
「これを……」
数日後、アナはじいやに虹色に輝く美しい文と造花を手渡した。
どちらもアナが錬金で創ったものだ。
文に用いた紙は何でできているのだろう? 虹色に輝くだけでなく、淡く仄かに良い香りを放っている。
添えられた造花は、この砂漠の国でしか咲かない希少な花を模したものだ。こちらもオリジナルの花と同じ香りをまとい、瑞々しくも虹色の輝きを放っていた。
「おおぉぉ……これは素晴らしい」
侍女たちやじいやの溜息が漏れる。
「これほどのものを…… こちらをお贈りすればよろしいのですね」
「ええ。じい、これとは別にお願いがあるのだけれど」
「どのようなことで?」
「しばらくひとりでゆっくり休みたいの。身の回りのことはわたしが自分でするから、しばらく誰も部屋に入らないでほしいの。お掃除も含めてね」
「しかし姫様、それはあまりにも……」
「お願い。学舎寮ではいつもひとりだったのよ。大抵のことはできるし、ひとりの時間が欲しいの」
「わかりました。ただし、控えの間にはわたくしを含めて侍女たちがおりますので、何かあればお申し付けくだされ」
アナはひとりになりたいと言ったが、周囲との関わりを断絶したわけではなかった。ただ、自らの私室にだけは誰一人として足を踏み入れさせない。
表向きは穏やかな日々が過ぎていく中で、その固く閉ざされた帷の奥で何が蠢いているのかを知る者は、誰一人としていなかった。
◇ アナ 十五歳
(この美しさ……やはり、わたしの技量ではまだまだ再現はできないのね)
アナは今、水盆の庭にいる。五年ぶりの許しを得て魔石を見つめている。
どれだけ見ても見飽きない。ただひたすらに見つめ続ける。常に移り変わる様相と、滾々と湧き出る水の様子を。
(この煌めきが二度と見られなくなるなんて……)
そんなこと……想像もできない……
ああ、でも、もうすぐのはずだ。かの国から知らせが届く……
「……姫様?」
傍らに控えるじいやの、引きつったような声が耳に届く。
視界の端に微かに震えるじいやの手が映った。
幼き頃であれば、その手を取りじいやを安心させたであろう。
だが、今のアナの心はただひたすらに魔石に向かっていた。
魔石を射抜くアナの瞳には、尋常ならざる熱量が宿る。
それはかつてのような純粋な憧れや、幼い恋い焦がれではない。執念と執着が混ざり合った、暗く重く湿った異様な熱だった。
◇
数日後、海の向こうより礼状が届いた。
それは倍返し、というよりも数倍返しの状態でアナへと届けられた。
その豪華な返礼を見つめながらフッと漏らすその笑みは、やはりどこか薄ら寒さを感じさせるもの。いつにも増してその瞳に輝きが、冥い深淵に届くかのような妖しい熱が籠っていた。
返礼が届くほどの時間が経っても、アナはまだ部屋に人が入ることを拒んでいた。
今日も礼状を確認したかと思うと、部屋へひとり戻ろうとする。
「……姫様。もし……もし何かお困りのことや、お悩みがおありでしたら、どうぞこのじいにご相談くだされ。どのようなことでも、この命に代えてもお手伝いいたしますゆえ……」
躊躇うように掛けられた声に後ろを振り返れば、じいやの瞳が不安げに揺らいでいた。何かを言いたそうにしているのが透けて見えるのだが、アナは敢えて気付かぬふりをした。
「ありがとう、じい。特に今は何も困っていないから。ただ、一人でいたいだけよ」
ふわりと微笑んで見せたのだが、それが却ってじいやの不安を煽ったのだろう。じいやの眉根がより狭くなっただけ。
(命に代えてもか…… じい、ごめんなさい……)
◇
夜も更け、砂漠の空気は刺すように冷たく肌に染みいる。
アナの自室に隣する控えの間には、じいやと侍女たちが控えていた。
(今日の姫様は何かが違う……)
侍女たちに気づかれぬよう、じいやは小さく、深く吐息を零す。
ここ最近のアナと何が違うのか、言葉にしろと言われても上手く説明はできない。
だが、何かひっかかるのだ。どうしても、アナの様子が気になって仕方がなかった。
それに、この静けさ——
控えの間に夕刻より待機しているが、帷の向こうからは物音ひとつ聞こえてこない。「入ってはならぬ」と告げられてから一度もアナの部屋の中を覗いたことはないため、中の様子は窺い知れない。
ただ、いつもであればアナが立てる小さな衣擦れや、書物をめくるかすかな音が漏れ聞こえてくるはずなのだ。
これほどまでに音がないことは異様で、じいやの背筋に嫌な冷や汗が伝っていく。
(違う……聞こえなさすぎるのだ!)
アナの部屋は中庭に面している。いつもなら、噴水から流れる水音に様々な虫の声が絶え間なく聞こえていた。この宮殿の何処かで催されている管弦の音色が、風に乗ってくることもあった。
だが、今は何も聞こえてこない……
気付いた時には、部屋へと足を踏み入れていた。
侍女をしばらく入れさせていなかったとは思えぬほど、室内は完璧に整頓されている。
そう、片付いてはいるのだ。
だが——絨毯の上には小さなものから大きなものまで、無数の鏡が整然と並べられていた
それは、異様な雰囲気を醸していた。
じいやは辺りに視線を彷徨わせるが、そこにアナの姿はない。
整然と敷き詰められた鏡の合間を縫い、じいやは慎重に奥へと足を進めた。
通り過ぎる際に目に入る鏡面——どこであろうか、見慣れない景色。乾いた砂漠の空気とは異なる、しっとりとした夜露のような湿り気を感じさせ、異国であることが自ずとわかる。
歩を進めれば鏡に映る景色も変化する。どこかの屋敷の中なのか。豪奢な調度品に格調高い部屋の造り。ひときわ豪奢な部屋へと場面は移り、何処かわからないが高貴な人物の私室であろうか。
じいやが足を止めることなく先に進むと、一際大きな姿見が目に入った。
見慣れたそれはアナ愛用の姿見。その姿見の前に立つ者は誰もいないというのに、鏡面に映し出されているのは、一人の男性だった。
壮年というには少し若い、高貴な身分であろうと一目でわかる男性である。
椅子に深く腰を下ろし、寛ぐその手には見覚えのある物が握られていた——あの、虹色に輝く美しい文。目を凝らして姿見の中を見れば、その男性の顔は海の向こうより贈られた写し絵と瓜二つであった。
(姫様は……いったい何を考えておられる……)
震える視線を中庭に面したテラスへと向けると、そこにアナの姿があった。
◇
(文と造花が、あちらへ届いた……)
遠見の鏡に映し出されているのは、届いた写し絵と寸分違わぬ婚約者の姿。
送り届けた文と造花が、あの方の近くにある“今”を逃せば二度と機会は訪れない。胸の奥で、焦燥と冷たい高揚感が渦を巻いていた。
アナが手ずから創り上げ、贈った文と造花。
この二つに、アナは“遠見の目”を仕掛けていた。
もし、先方にこれが探知されたとしても「嫁ぎ先がどのようなところか……知りたかったのです」と心細げに語れば何とかなるであろうと、言い訳も考えていた。
だが実際は探知された様子は微塵もなく、こうして自室の鏡には、彼の地かの方の姿が克明に映し出されていた。
この方がわたしを望みさえしなければ……
いいえ、そもそも存在しなければいいのだ。
この方さえ消えてしまえば、わたしは嫁ぐ必要がなくなる。この国に、あの魔石の側に留まり続けることができる。
十五歳を過ぎた姫など、他国からの縁談などそうそうあるはずもない。
これで……わたしはこの国に居続けることができる。
あの人さえ、いなくなれば……
◇
じいやは静かに、だが足を速めて部屋を横切ると、中庭へと降り立った。
そこには、見たこともない巨大で複雑な魔法陣が薄青い光を帯びて浮かび上がっていた。
その中心に佇むのはアナ。
静かに、しかし途方もない密度の魔力を練り上げているのが、離れたこの位置からでも肌が粟立つほどに伝わってくる。
場のあまりにもの異様さに、じいやは辺り一帯を見回した。すると、中庭もアナの部屋も——この一画のすべてを切り離し隠すかのように、幾種類もの結界が覆っていた。
すべての物音が途絶えていたのは、この一番外側を覆う結界のためか……
こくりと息を呑み込み、じいやは震える足で一歩前へと踏み出した。
「……姫様、何をなさっておいでです。そのような陣を描き、魔力を練り上げる。まるで、呪詛でも行われるかのように見えますぞ」
「呪詛! そうね……それが出来れば、もっと簡単だったのだけれど。生憎、わたしは呪詛の才には恵まれなかったみたい。だから、ちょっと工夫してみたのよ」
アナはまるで悪戯が成功した幼子のような、愛くるしい笑みをじいやに向けた。
「工夫と……いうのは?」
アナは何をしようとしているのか、その練り上げた膨大な魔力を、一体何に使おうとしているのか。
じいやは何とかして聞き出したいのだが、問う言葉が見つからない。
だが、これは、アナが行おうとしていることは、絶対に止めなければならないこと——それだけは理解できた。
(話し続けなければ……姫様が……)
目的も、仕掛けの全貌も、それを阻止する手段すら解らない。
だが、話を長引かせてでも、アナの気を逸らさなければと、焦る気持ちだけが先走る。
「あの方のご様子をいつでも確認できるように。そして——わたしの魔法が、遠く離れた彼の地まで確実に届くように、ってね」
期待していなかった答えが返る。
愛くるしい微笑みを浮かべたまま、アナはじいやの問いに言葉を返す。
「あの文と造花にはね、ちょっとした仕掛けをしておいたの。わたしの部屋から彼の地が視えるように。文を読むお方のお顔が、鏡に映りますように、って」
「そ、それは、部屋に並べられていた、あの鏡……」
「それにね、もう一つ」
まだ、何かあの品々に細工をしていたというのか……
「——わたしの血から作った香を、文に焚きしめておいたのよ」
歌うように語るアナの胸元から、仄かに生々しく甘い香りが漂う。アナが言う自らの血から精製し、あの文に焚きしめた香だ。
「今、あの方はわたしの文を読んでいらっしゃる。わたしを感じていらっしゃる。わたしの魔力はわたし自身を求めて、どこまでも進んでいくわ……」
じいやはアナの言葉にすっかり気を取られていた。
だがアナは、じいやに語って聞かせながらも、魔力を深く静かに練り上げていた。アナが天に向けて伸ばす両手の先には、妖しくも眩しい光が集束していた。
蒼穹に伸びるアナの指先が、より一層輝きを増していく——
「姫様、なりませぬ! 国を攻めてはならぬと天の理にございます! それを、その光を放ってはなりませぬ! 他国の王へ向けてなど——」
恐らくアナはあの魔法を放つことで、海の彼方にいる婚約者を葬り去ろうとしている。文に焚きしめられた香が恐らく目印。目印に向かってあの光は突き進むのであろう。
それは“国が国を攻めてはならぬ”という天の理に触れる不吉な禁忌。
じいやは必死に声を張り上げ、アナを取り巻く結界を打ち破ろうとその体をぶつけるが、重厚に張り巡らされた二重三重の結界は、他者を容赦なく弾き返した。
「じい、何を言っているの? わたしは他国を攻めてもいないし、欲してもいないわ。あの人が、いなくなればいいだけなのよ」
「姫様、それはあまりにも自分勝手な詭弁です! 国主を亡き者にしようなど、他国を攻めるも同然。おやめくだされ!!」
じいやは必死にアナに訴えた。結界を超えることが出来ないのであれば、せめてこの言葉だけでもアナの心に届いて欲しいと……
アナの視線が一瞬、ほんの一瞬こちらに向けられた。
その黒い瞳に宿る光は、「魔石」を飽きずに見続けていた幼き頃のあの純粋な輝きとあまりにも同じで……
一瞬ののち、さらに密度を増した瞳の光が、じいやから逸らされる。
——アナが一言、唇を小さく動かした。
呪文の詠唱が、ついに終わりを迎えたのだ。
蒼穹に向かってすっと伸ばされた、白い両腕。
その細い指先から、光が放たれる——
いや、放たれたと思われた、まさにその瞬間。
アナが放つ魔力を遥かに凌駕する、圧倒的な光の奔流が辺り一面を呑み込んだ。
陣の要に座すアナはもちろん、その場にいたじいやも、控えの間にいる侍女達も、すべてが光の渦の中へと呑み込まれた。
この時、はるか上空からこの砂漠の王国を見下ろす者がいたならば、暗闇の中でこの砂漠の王国一帯が眩い光に呑まれているのがわかったであろう。
理由も知らずに眺めるのであれば、それはいっそ天の絶大な祝福を受けているかに見えるほど、神聖で神々しい光景だった。
実際、砂漠の国の人々は突然わが身を包む光の奔流に、天の加護が新たに与えられるのではないか、天の新たな奇跡がなされるのだろうかと、期待に満ちた気持ちで次を待ち、蒼穹を仰いでいた。
——天より降り注ぐ、厳かなる声を聞くまでは。
《天の理を犯すなかれ》
《国が国を攻めてはならぬ》
《これ 天の理なり》
この世界の全てのものが、主の声をしかと聞いた。
そして、悟る……
一つの国が、終わりを迎えることを。
砂漠の国の民もまた悟る。
我が母国が、滅びの道を歩み始めたのだと。
眩い光は、現れた時と同じく唐突に掻き消えた。
と同時に、長きにわたり王国を護り続けていた結界が完全に消滅する。
主の言葉に慄き、国王が慌てて「はじまりの水盆」へ駆け寄り覗き込めば、滾々と水を湧き出していたはずの魔石は、すでにすべての光と生命を失い、ただの冷たい石と化していた——
そして。
王女アナの姿を誰も二度と見ることはなかった。
◇
「何故? アナは他国を攻めてはいないわ。それに海の向こうの国王様も無事だったのでしょ?」
「主の裁定だからね」
「主は絶対?」
「絶対だね。交渉できる相手だけど、するなら実行する前にしないとね」
「国は……どうなったの?」
「見ての通りだよ。魔石の力が失われ、湧き出る水が潰えた。乾いた砂の大地で水が失われればどうなるか。……こうなるまでに時間は大してかからなかったよ」
「国王様や、じいやたちは?」
「とてもできた人々だったんだろうな。……国が完全に崩壊する前に、所縁がある国々に国民の保護を依頼して回っていたよ。王宮の財宝をすべて売り払い、それを国民に分け与えもしていたね。最後の最後まで、本当に国民の為に尽力していたよ」
「アナは……どうなったの?」
返される言葉はない。見れば、金の瞳はつっとそらされ、遥か遠く、いやここではない何処かを見つめていた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
本作は連載中の『ヴィルディステの物語』(https://ncode.syosetu.com/n0331jd/)の外伝となります(本編より遥か昔の時間軸のお話です)。
数年前に書いたものをブラッシュアップし、リライトいたしました。
もしこの砂漠の国の物語や世界観を気に入っていただけましたら、ぜひ本編もお手に取っていただけると嬉しいです!




