『短編』君の墓に花束を
君が死んでから、いくつの季節が巡ったのだろう。
春の匂いも、夏の湿った風も、秋の乾いた空気も、冬の白い吐息も、すべてがどこか現実味を失っていた。まるで世界が一度終わって、形だけが残っているような感覚だった。
君がいない世界は、どうしてこんなにも静かなのだろう。
いや、本当は静かなんかじゃない。車は走り、人は笑い、街は相変わらず騒がしい。ただ、そのすべてが僕にとって遠くなっただけだ。水の中から地上を見上げているような、そんな歪んだ距離感の中で、僕はただ日々をやり過ごしていた。
君が死んだのは、交通事故だった。
それはあまりにも突然で、あまりにもありふれた理由で、だからこそ現実として受け止めることができなかった。
ニュースでもよくある話だ。夜の道路、信号、スピード、油断。そんな言葉の羅列の中に、君の名前が混ざるなんて、誰が想像できただろう。さらに、自分が名前を混ぜさせたなんて。
僕は、未だにその事実を認めていない。
認めた瞬間に、何かが決定的に壊れてしまう気がするからだ。
だから僕は、君の墓に行っていない。
花を供えることもない。
線香をあげることもない。
だってそれは、君がそこにいる事実を認めることになってしまう。
君は、そこなんかにいない。
そう思い続けている。
そう思わなければ、息ができないからだ。
あの日のことを、忘れた日は一日もない。
君は助手席に座っていた。窓を少しだけ開けて、夜風を気持ちよさそうに受けていた。ラジオから流れていたのは、君が好きだと言っていた曲だった。
明るくて、聞くだけで気分が上がる曲。
「ねえ、もう少しスピード落としなよ」
君はそう言った。
僕は笑って、大丈夫と返した。
本当に、大丈夫だと思っていた。
何の根拠もないのに。
ただ、若さとか、慣れとか、そんな曖昧な自信が、すべてを覆い隠していた。
交差点に差し掛かったとき、信号は黄色に変わっていた。
止まるべきだった。
今なら、そう思う。
でもあのときの僕は、アクセルを踏み込んだ。
行けると思った。行けるはずだった。
それが、すべての始まりだった。
右から来た車に気づいたのは、ほんの一瞬前だった。
ブレーキを踏むよりも先に、衝撃が襲った。
世界がひっくり返るような音と衝撃。
ガラスが砕ける音。
金属が軋む音。
そして、君の声。
それが最後だった。
目が覚めたとき、僕は病院のベッドの上にいた。
最後に見た景色と、今見た景色が合わない。
天井の白さが、妙に現実的で、逆に何もかもが嘘のように思えた。
腕には点滴が刺さっていて、体は思うように動かなかった。
しばらくして、誰かが部屋に入ってきた。
医者だったのか、看護師だったのか、よく覚えていない。
ただ、その人の口から出た言葉だけは、はっきりと覚えている。
「同乗者の方は、残念ながら……」
その先は、聞こえなかった。
聞こえないふりをした。
聞いてしまったら、戻れなくなる気がしたからだ。
僕は目を閉じた。
そして、そのまま眠りに逃げた。
退院してからの日々は、空白だった。
何をしていたのか、よく覚えていない。
ただ、時間だけが過ぎていった。
君の家には行けなかった。
君の家族に会うこともできなかった。
何を言えばいいのかわからなかったし、何を言っても許されない気がした。
いや、実際に許されるはずがなかった。
それでも僕は、事故だったと言い訳をしていた。きっとそうしてた。
仕方がなかったと、自分に言い聞かせていた。
でも、本当はわかっている。
あのとき、止まっていれば。
あのとき、もう少しだけ慎重でいれば。
君は、今も生きていた。
退院してから幾ばくの月日が経ったとき、共通の友達だった京に会った。
「お前、行ってないだろ」
「…どこに」
本当はわかっている。だけど、まだ口に出せない。
「わかってるだろ。墓にだよ」
「行けない。僕は行ったらダメだ」
君を死なせ、家族に顔向けもできない。謝れてもいない僕に会う資格はないし、会えない。
「お前が何考えてるか知らないけど、もし事故を起こしたから行けないとかだったら、ぶっ飛ばすぞ」
「事故を起こしたから行くんだろうが。謝罪もできずにこのままでいたら後悔するぞ」
京は言いたいことだけ行ったら帰ってしまった。
京自身も友人を失って辛いはずなのに、僕を励ましてくれた。
彼女を失わせた僕を励ましてくれた。
その励ましが、深く心に沈んでいった。
あの日から、数日たった。僕はあの日以来していなかった車を運転した。
事故以来、ハンドルを握るのは初めてだった。
怖くなかったわけじゃない。
むしろ、恐怖で手が震えていた。
それでも、なぜか運転しなければいけない気がした。
エンジンをかけると、低い音が響いた。
あの日と同じ音だった。
アクセルを踏むと、車はゆっくりと動き出した。
街の景色が流れていく。
信号、交差点、歩道橋、コンビニ。
どれもこれも、あの日と変わらない。
ただ、君だけがいない。
交差点に差し掛かったとき、無意識にブレーキを踏んでいた。
信号は青だった。
それでも、僕は止まった。
後ろの車がクラクションを鳴らした。
それでも、動けなかった。
ただ、あの日の光景が頭の中で繰り返されていた。
その日、僕は初めて君の墓に向かった。
行くつもりなんてなかった。
でも、気づいたら車はその方向に進んでいた。
逃げ続けていた場所。
認めたくなかった現実。
それでも、もう限界だった。
このままでは、何も変わらない。
何も終わらない。
墓地に着くと、静けさが広がっていた。
風の音と、鳥の声だけが聞こえる。
君の名前が刻まれた石を見つけるのに、時間はかからなかった。
そこに立ったとき、足がすくんだ。
逃げ出したくなった。
でも、逃げる場所なんて、もうどこにもなかった。
僕はゆっくりと近づいた。
そして、初めてその名前を見た。
確かに、そこに刻まれていた。
君の名前が逃げ場のない事実として。
僕は、その場に膝をついた。
言葉が出なかった。
何を言えばいいのか、わからなかった。
謝る資格なんて、どこにもないのに。
ただ、涙だけが流れていた。
止めることができなかった。
「……遅くなって、ごめん」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
何ヶ月も、何年もかけて、やっと出てきた言葉が、それだった。
あまりにも軽くて、あまりにも遅すぎる言葉。
それでも、それしか言えなかった。
「花も……持ってきてない」
情けないと思った。
こんなにも準備ができていない自分が。
それでも、君は何も言わない。
当然だ。
もう、話すことはできないのだから。
しばらくして、風が吹いた。
木々が揺れて、葉の音が響いた。
その音が、なぜか君の笑い声に似ている気がした。
もちろん、気のせいだ。
そんなはずはない。
でも、その一瞬だけ、君がそこにいるような気がした。
僕は顔を上げた。
空は青くて、雲がゆっくりと流れていた。
あの日とは、まるで違う空だった。
「ちゃんと、生きるよ」
僕は、そう言った。
許されるなんて思っていない。
忘れられるとも思っていない。
でも、それでも、生きていくしかない。
君の分まで、なんて言えるほど立派じゃない。
ただ、自分の罪を抱えたまま、それでも前に進むしかない。
それが、僕にできる唯一のことだと思った。
帰り道、車を運転しながら、僕は初めて前を向いている気がした。
過去は消えない。
君は戻らない。
でも、それでも時間は進む。
止まることはできない。
信号が赤に変わった。
僕は静かにブレーキを踏んだ。
そして、青に変わるのを待った。
今度は、急がなかった。
ちゃんと、待った。
君の墓に花束を。
次は、ちゃんと持っていく。
そして、何度でも話しかける。
返事がなくても。
届かなくても。
それでも、きっと意味はある。
そう思えるようになったから。
風が吹いた。
数年後、あの墓にはいつも新しい一輪の花が添えられていた。




