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『短編』君の墓に花束を

作者: 宴元蒼井
掲載日:2026/05/23


君が死んでから、いくつの季節が巡ったのだろう。

春の匂いも、夏の湿った風も、秋の乾いた空気も、冬の白い吐息も、すべてがどこか現実味を失っていた。まるで世界が一度終わって、形だけが残っているような感覚だった。

君がいない世界は、どうしてこんなにも静かなのだろう。

いや、本当は静かなんかじゃない。車は走り、人は笑い、街は相変わらず騒がしい。ただ、そのすべてが僕にとって遠くなっただけだ。水の中から地上を見上げているような、そんな歪んだ距離感の中で、僕はただ日々をやり過ごしていた。

君が死んだのは、交通事故だった。

それはあまりにも突然で、あまりにもありふれた理由で、だからこそ現実として受け止めることができなかった。

ニュースでもよくある話だ。夜の道路、信号、スピード、油断。そんな言葉の羅列の中に、君の名前が混ざるなんて、誰が想像できただろう。さらに、自分が名前を混ぜさせたなんて。

僕は、未だにその事実を認めていない。

認めた瞬間に、何かが決定的に壊れてしまう気がするからだ。

だから僕は、君の墓に行っていない。

花を供えることもない。

線香をあげることもない。

だってそれは、君がそこにいる事実を認めることになってしまう。

君は、そこなんかにいない。

そう思い続けている。

そう思わなければ、息ができないからだ。

あの日のことを、忘れた日は一日もない。

君は助手席に座っていた。窓を少しだけ開けて、夜風を気持ちよさそうに受けていた。ラジオから流れていたのは、君が好きだと言っていた曲だった。

明るくて、聞くだけで気分が上がる曲。

「ねえ、もう少しスピード落としなよ」

君はそう言った。

僕は笑って、大丈夫と返した。

本当に、大丈夫だと思っていた。

何の根拠もないのに。

ただ、若さとか、慣れとか、そんな曖昧な自信が、すべてを覆い隠していた。

交差点に差し掛かったとき、信号は黄色に変わっていた。

止まるべきだった。

今なら、そう思う。

でもあのときの僕は、アクセルを踏み込んだ。

行けると思った。行けるはずだった。

それが、すべての始まりだった。

右から来た車に気づいたのは、ほんの一瞬前だった。

ブレーキを踏むよりも先に、衝撃が襲った。

世界がひっくり返るような音と衝撃。

ガラスが砕ける音。

金属が軋む音。

そして、君の声。

それが最後だった。


目が覚めたとき、僕は病院のベッドの上にいた。

最後に見た景色と、今見た景色が合わない。

天井の白さが、妙に現実的で、逆に何もかもが嘘のように思えた。

腕には点滴が刺さっていて、体は思うように動かなかった。

しばらくして、誰かが部屋に入ってきた。

医者だったのか、看護師だったのか、よく覚えていない。

ただ、その人の口から出た言葉だけは、はっきりと覚えている。

「同乗者の方は、残念ながら……」

その先は、聞こえなかった。

聞こえないふりをした。

聞いてしまったら、戻れなくなる気がしたからだ。

僕は目を閉じた。

そして、そのまま眠りに逃げた。


退院してからの日々は、空白だった。

何をしていたのか、よく覚えていない。

ただ、時間だけが過ぎていった。

君の家には行けなかった。

君の家族に会うこともできなかった。

何を言えばいいのかわからなかったし、何を言っても許されない気がした。

いや、実際に許されるはずがなかった。

それでも僕は、事故だったと言い訳をしていた。きっとそうしてた。

仕方がなかったと、自分に言い聞かせていた。

でも、本当はわかっている。

あのとき、止まっていれば。

あのとき、もう少しだけ慎重でいれば。

君は、今も生きていた。


退院してから幾ばくの月日が経ったとき、共通の友達だった京に会った。

「お前、行ってないだろ」

「…どこに」

本当はわかっている。だけど、まだ口に出せない。

「わかってるだろ。墓にだよ」

「行けない。僕は行ったらダメだ」

君を死なせ、家族に顔向けもできない。謝れてもいない僕に会う資格はないし、会えない。

「お前が何考えてるか知らないけど、もし事故を起こしたから行けないとかだったら、ぶっ飛ばすぞ」

「事故を起こしたから行くんだろうが。謝罪もできずにこのままでいたら後悔するぞ」

京は言いたいことだけ行ったら帰ってしまった。

京自身も友人を失って辛いはずなのに、僕を励ましてくれた。

彼女を失わせた僕を励ましてくれた。

その励ましが、深く心に沈んでいった。


あの日から、数日たった。僕はあの日以来していなかった車を運転した。

事故以来、ハンドルを握るのは初めてだった。

怖くなかったわけじゃない。

むしろ、恐怖で手が震えていた。

それでも、なぜか運転しなければいけない気がした。

エンジンをかけると、低い音が響いた。

あの日と同じ音だった。

アクセルを踏むと、車はゆっくりと動き出した。

街の景色が流れていく。

信号、交差点、歩道橋、コンビニ。

どれもこれも、あの日と変わらない。

ただ、君だけがいない。

交差点に差し掛かったとき、無意識にブレーキを踏んでいた。

信号は青だった。

それでも、僕は止まった。

後ろの車がクラクションを鳴らした。

それでも、動けなかった。

ただ、あの日の光景が頭の中で繰り返されていた。

その日、僕は初めて君の墓に向かった。

行くつもりなんてなかった。

でも、気づいたら車はその方向に進んでいた。

逃げ続けていた場所。

認めたくなかった現実。

それでも、もう限界だった。

このままでは、何も変わらない。

何も終わらない。

墓地に着くと、静けさが広がっていた。

風の音と、鳥の声だけが聞こえる。

君の名前が刻まれた石を見つけるのに、時間はかからなかった。

そこに立ったとき、足がすくんだ。

逃げ出したくなった。

でも、逃げる場所なんて、もうどこにもなかった。

僕はゆっくりと近づいた。

そして、初めてその名前を見た。

確かに、そこに刻まれていた。

君の名前が逃げ場のない事実として。

僕は、その場に膝をついた。

言葉が出なかった。

何を言えばいいのか、わからなかった。

謝る資格なんて、どこにもないのに。

ただ、涙だけが流れていた。

止めることができなかった。

「……遅くなって、ごめん」

ようやく出た言葉は、それだけだった。

何ヶ月も、何年もかけて、やっと出てきた言葉が、それだった。

あまりにも軽くて、あまりにも遅すぎる言葉。

それでも、それしか言えなかった。

「花も……持ってきてない」

情けないと思った。

こんなにも準備ができていない自分が。

それでも、君は何も言わない。

当然だ。

もう、話すことはできないのだから。

しばらくして、風が吹いた。

木々が揺れて、葉の音が響いた。

その音が、なぜか君の笑い声に似ている気がした。

もちろん、気のせいだ。

そんなはずはない。

でも、その一瞬だけ、君がそこにいるような気がした。

僕は顔を上げた。

空は青くて、雲がゆっくりと流れていた。

あの日とは、まるで違う空だった。

「ちゃんと、生きるよ」

僕は、そう言った。

許されるなんて思っていない。

忘れられるとも思っていない。

でも、それでも、生きていくしかない。

君の分まで、なんて言えるほど立派じゃない。

ただ、自分の罪を抱えたまま、それでも前に進むしかない。

それが、僕にできる唯一のことだと思った。

帰り道、車を運転しながら、僕は初めて前を向いている気がした。

過去は消えない。

君は戻らない。

でも、それでも時間は進む。

止まることはできない。

信号が赤に変わった。

僕は静かにブレーキを踏んだ。

そして、青に変わるのを待った。

今度は、急がなかった。

ちゃんと、待った。

君の墓に花束を。

次は、ちゃんと持っていく。

そして、何度でも話しかける。

返事がなくても。

届かなくても。

それでも、きっと意味はある。

そう思えるようになったから。

風が吹いた。


数年後、あの墓にはいつも新しい一輪の花が添えられていた。

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