愛人は、
⁂⁂⁂⁂
何があったか、貴女に全て語ってしまいたい。
けれど貴女にすら話せない、そんなことが、あったの。
夫が愛人を連れて帰って来た。
でもそんなことはどうだって良いの。貴女も知ってのとおり、私とあの男は政略結婚なのだから、愛も情もあるわけがないわ。
――私、天国に行けないことだけが残念。
とても残念。だからせめて、地獄への道連れをたくさん増やして行くわ。
私さえ生まれなければ、こんなことは起きなかったのに、と嘆き悲しませるの。ふふ、想像しただけで心躍るわ。
なんだかとても疲れちゃって。
だからもう終わりにするわ。
貴女に私を殺してもらえたら、この世もこの人生もすっきり爽快なんだけれど。
今一番の後悔よ。
まったくひどいひと。だいすきで、ひどいひと。
さようなら。
貴女に降りつもるすべてが、貴女を癒し慈しみますように。
ネヴァ・カデナス
⁂⁂⁂⁂
カデノ・リグオリは婚約者を愛している。
隣の領地を治めるカデナス伯爵家三女、ネヴァ。
婚約者である彼女は控えめで、あまり笑わない。しかし少しばかり頬を緩ませると、艶やかな唇に魔性を宿す。あまり笑ってくれるな、と馬鹿のように願ったものだ。
引っ込み思案な彼女から、愛を謳われたことはなかったが、緩やかな微笑みがいじらしい愛を滲ませていた。
結婚前に愛を育んだことは、互いの両親に大目玉を食らった。
カデナス伯爵は冗談混じりに、娘を傷物にしたのだから一生責任をとれ、と苦笑していた。実の両親は平身低頭謝罪するばかりで、まぁ、爵位はあちらが上ではあるので頭を下げさせてしまったのは少し心が痛んだ。
1年後、結婚式を挙げた。
晴れて夫婦となったが、ネヴァは閨事にいつまで経っても慣れなかった。宥めすかしてようやく事に及んでも、子はいつまでも出来ないままだ。出来ないはずはないのに。もしかしたら、と婚姻から数年経ち、後妻や養子の話が持ち込まれるようになった。ネヴァを愛しているのだから、そんな話は聞けない。しかし貴族の義務を果たさなければならない。
何年も何年も、無為に時を重ねた。
もう、ネヴァは自身の子を諦めてしまっていた。
悩みに悩み、彼女と話し合った上で、先ずは愛人を見繕うことになった。
彼女に少しは似ている者を選びに選んで。
愛人を連れ、彼女に会わせた。
彼女は可哀想なくらい蒼ざめて、今にも倒れてしまいそうだった。
愛人に二言、三言、話をした彼女は、1時間程一人にして欲しいから待っていて、と部屋を出て行った。落ち着くには時間が必要だ。彼女の側仕えが付いているし、大丈夫だろう。
私と愛人は居心地悪く茶を飲み、時が経つのを待った。
彼女は1時間後、戻って来た。
何処かふっきれたような、緩やかな笑みを浮かべて。
⁂⁂⁂⁂
レオノール・テンプランツァは、ネヴァ・カデナスの周辺を改めて調査した。
ネヴァ自身が彼女に伝えたこと。
伝えられなかったこと。
ネヴァの軛。
ネヴァの鎖。
特別に彼女が不幸だったわけではない。
不遇だったわけではない。
しかしこうも、巡り巡って不幸が連鎖していけば、彼女を削り取り、磨耗させるには充分だったのだろう。
「……わたくし、貴女について調べたのよ。
あれからカデナスもリグオリも傾いているわ。彼らも彼らに関わるものすべて、原因不明の体調不良ですって。もう少しで亡くなる方もいるとか。悪魔に憑かれた、なぁんて囁かれているの。貴女なら手を叩いてにっこり笑うでしょうねぇ……悪趣味なのよねぇ我が親友は」
レオノールは彼女の遺書を強く、握った。
淑女の手ではない。憤る者の手で。
「貴女もあの男も、愛人も、火事に見舞われるなんて。煮え滾るように怒ったの?それとも焼け木杭に火がついたの?愛人と、火花を散らしたりしたかしら」
たちの悪い冗句を口にしながらもレオノールは知っていた。ネヴァに怒りはなく、その心に熾火はなかったと。
レオノールは知っていた。
ネヴァ・カデナスが、カデノ・リグオリを心底嫌っていたことを。
14歳の彼女がカデノに強姦されたことを。
その時死を望んでいたこと。
傷物で他に当てが無いとあの男と結婚せざるを得なかったこと。
避妊薬を飲み続けていたこと。
お守りのように、自害のための毒薬を大事にしていたこと。
レオノールは知らなかった。
ネヴァが強姦により子どもを孕っていたこと。
子を産み落としていたこと。
遠縁に養子に出され、さらに遠縁へと養子に出されたこと。
そして、
そしてその子を、カデノ・リグオリが見初めたこと。
⁂⁂⁂⁂
ネヴァ・カデナスは地獄にいる。
目の前には畜生以下の獣が一対。
娘と番う猿。
父と寝る鼠。
うめよ、ふやせよ、ちにみちよ。
……神よ。
地に満ちるのが、この畜生共であろうと赦されるのであれば、
――この世こそが地獄。
強姦した男。
強姦で生まれた女。
これ以上に似合うものはない一対。
罪と無知がこれ程までに、すべてを台無しにするなんて知らなかった。
悲劇だなんて囀ることなど出来はしない。
幸せに、と送り出すことなんて出来やしなかった。
苦痛で出来た子だったから。苦痛から生まれた子だったから。
それでも、
それでも、不幸にはならないようにと、
母として、人として、年長の女として、あの娘を手離したのに。婚前に出来た庶子として生きるより、遠縁の子として生きた方が良いだろうと。父も母も遠く遠く、知らないままで健やかに、生きていけるようにと。
なけなしの良心だった。憐れみだった。愛だった。
振り絞るような善心を、こうまで踏み躙られるとは、誰が予想できただろう。
燃えるような怒りも憎しみもない。
ただ滅ぼさなければならないと、冷徹に、思った。
ひとときの間に、やるべきことは多くない。
親友への手紙を書き、
実家を始めとした親類、そして姻族にいつもの荷を送る。側仕えは何も言わず、最後まで従った。
少しばかりの手作業と準備。
それでおしまい。
ほんとうに。
⁂⁂⁂⁂
「まだ死なないから、安心して」
ネヴァは穏やかに告げた。
カデノと愛人…娘のヘラニオは血を咳き込みながらテーブルに突っ伏していた。
すぐに命が失われるものではないが、充分に身動きを奪う毒。それを茶に仕込んだのだとネヴァは他愛のない口振りで宣ったのだ。
カデノは怯えながらも、心の何処かで嫉妬される程求められていたのだと安堵していた。
ヘラニオは女の嫉妬を舐めていた、と後悔しきっていた。
――二人とも、この後に及んで無知ゆえに。
「カデノ、貴方が私を強姦して、子が出来たわね」
「⁉︎いや、あれは、」
「嫌がり抵抗する私を笑いながら犯して出来た子、忘れた?」
「……それは、」
「私にも貴方にも会うことがないように、遠縁の遠縁に出した子、覚えてる?」
「……あぁ」
ネヴァはいつもの緩い笑みを浮かべた。
いつもの、諦観に満ちた笑みを。
「なぁんだ、忘れているのかと思ったわ」
「そんな……私と、君の子だ……名も付けられず、顔も朧げだが、それでも、」
「――なら、どうして、
娘を犯すの?」
カデノは
ヘラニオは
息すら忘れた。
「ヘラニオは私の遠縁に養子に出したわ。貴方には何処の家に入ったか、伝えていなかったけれど。守るためだったの。貴方が手近な女として手を出さないように。私が貴方の代わりにと痛めつけないように。
どうやってヘラニオを連れて来られたのかしら?
貴方のことだから、きちんと話をして、契約を交わしたわけじゃないでしょう?
この子には才能がある!だなんて篤志家ぶって連れてきたのかしら」
「ネ……ヴァ……」
「わたしの、おかあさんと、おとうさん…?」
ネヴァは笑んだままに、
「貴方のことだから、つまみ食いしないわけは、ないわねぇ……」
カデノは完全に思考を飛ばしていた。
ヘラニオは自身の悍ましさに口を開けたまま硬直するばかり。
「逃げ方も似てるわねぇ、ほんと、よく似ていて、お似合いだわ」
ネヴァは凄惨な笑みを浮かべた。
⁂⁂⁂⁂
レオノールは茶を淹れていた。
普段なら侍女の仕事だが、これは任せるわけには――押し付けるわけにはいかない。
焼いたお肉の匂いが微かにする、包帯だらけの親友へカップを差し出した。
「貴女が親戚達に贈ったお茶のどれかよ。中身は知らないわ。貴方が贈ったものだもの」
親友は引き攣る皮を無理に笑みへと形作る。
目の奥には喜びと愉しみが、暗い色をして煌めいている。
「わたくし、貴女の願いを叶えてあげようかな、と思うぐらいには、幸せを願っているのよ」
親友は頷き、口付ける。
まるで愛を交わすように、飲み干した。
強姦される女は何処にでもいて。
家に逆らえない娘も何処にでもいて。
望まぬ妊娠をする女も何処にでもいて。
意に沿わない結婚をする女も、たくさんいて、
それでも地獄だなんて思わないの。
――おかしいわよねぇ。
「ネヴァ・カデナス。
地獄から、さようなら」
地獄から、私は解放されたの。
お二人さんは、まだまだ元気そうだから、地獄をたっぷり愉しむと良いわ。少し身体が焦げちゃったって、動けなくたって、大丈夫よーー生きていけるのだから。




