第9話 世界で一番高い場所での誓い
その夜、リリアは眠れなかった。薄暗い天蓋の中、寝台の上で自分の指先をじっと見つめる。
「……魔族の、愛撫」
昨日、ゼノスに指先を舐めとられた感触が消えない。湿った熱、吸い上げられるような感覚。思い出すだけで心臓が喉元まで跳ね上がり、頬が火照る。
「わ、私、とんでもないことをしてしまったんじゃ……」
無自覚に彼を誘ってしまったのではないか。そう思うと、胸の奥がひどく疼いた。その時だった。
コンコン、と場違いな場所から音が響く。バルコニーに続く、高い窓。
「え……?」
カーテンを開けたリリアは息を呑んだ。漆黒の外套を風になびかせ、夜空に平然と滞空する魔王がそこにいたからだ。朱色の瞳が、月光を背に鋭く、けれどひどく熱くこちらを射抜いている。
「外へ来い、リリア」
「えっ、今ですか!?」
「今だ。……お前の顔を近くで見なければ、私の夜が明けない」
数分後。リリアはゼノスの逞しい腕の中にいた。
「わ、わわっ……!」
ふわりと身体が浮き、一気に高度が上がる。夜風が髪を乱し、魔王城の尖塔がどんどん足元へ遠ざかっていく。
「怖いか」
「……少しだけ。でも、ゼノス様がいてくださるから」
正直に答え、彼の首筋に細い腕を回すと、抱きしめる力が強まった。
「離さない。お前が震えるなら、私がその震えごと飲み込んでやる」
降り立ったのは、城で最も高い場所――黒曜石の鋭利な尖塔の頂だった。視界のすべてを星空と、その下に広がる魔族の都の灯りが埋め尽くしている。
「綺麗……」
感嘆の溜息を漏らしたリリアの背後から、熱い体温が押し寄せた。ゼノスが後ろから彼女を包み込むように抱きしめる。薄い寝間着越しに、彼の力強い鼓動と、硬い胸板の質感が伝わってきた。
「……ゼノス様?」
「この国を見ろ。ここにある街も、森も、空も、お前が今吸っている空気のすべてが、俺の支配下にある」
耳元で囁かれる低い声。吐息がうなじを掠め、リリアの背筋に甘い戦慄が走った。
「つまり、お前がこれから見る景色のすべてに、俺がいる。お前が逃げようとしても、そこは俺の腕の中だ」
腕がわずかに強くなり、逃げ場を塞ぐ。
「一生、俺の視界から消えることを許さない。……重いか?」
それは、人族の常識で言えば呪いのような束縛だ。けれど、リリアはゆっくりと腕の中で振り返った。
月光に照らされたゼノスの顔を見上げる。その瞳にあるのは、冷酷な支配欲ではなく、自分を失うことを何よりも恐れている男の切実な熱だった。
「……いいですよ。重いの、嫌いじゃないです」
リリアは小さく笑い、彼の胸にそっと額を預けた。
「私も、ずっとゼノス様のおそばにいたいです。……私の世界も、ゼノス様だけでいい」
「───っ」
空気が凍りついたように止まった。リリアの無垢な肯定は、ゼノスが必死に繋ぎ止めていた理性の鎖を、いとも容易く焼き切ってしまった。
「お前は……自分が何を言っているのか、本当に理解しているのか」
ゼノスの手がリリアの腰を抱き寄せ、密着させる。
「それは俺を完全に縛り、狂わせる言葉だ。……もう、加減などしてやれんぞ」
「……だめ、ですか?」
上目遣いに、潤んだ桜色の瞳で見つめる。その瞬間、ゼノスは観念したように深く息を吐き、彼女の顎を指で掬い上げた。
「……歓迎だ。だが、覚悟しろ」
朱色の瞳が捕食者の色に変わる。
「お前が望む以上に、愛して、壊して、繋ぎ止めてやる」
その言葉に、リリアは目を閉じ、静かに唇を震わせた。
「……はい」
二人の距離が、ついにゼロになる予兆。
塔の下、城内では廊下のすべての蕾が一斉に爆ぜるように咲き乱れた。シャンデリアが愛の魔力に当てられて桃色に発光し、城全体が熱に浮かされたように震え始める。───魔王の理性が、音を立てて崩壊するまで、あと数秒。




