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秒で番(つがい)の屋敷を焼いた魔王 ~過保護な陛下は、愛しき小鳥を檻から救い出す~  作者: 宮野夏樹


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第8話 理屈と星図の恋心


 魔王城の廊下は、今日も甘い香りに満ちていた。原因は明白、主君であるゼノスの情緒がリリアによって「沸騰」しているせいだ。


「……また花が増えていますね」


 書類を抱えたアンナが足を止める。昨日までなかった白い小花が、絨毯の縁に沿ってハート形に咲き乱れていた。


「城の情緒反応が過剰です。実体化するほどの幸福指数は、防衛機能のノイズになりかねません」


 背後から響いた落ち着いた声。振り返ると、バルトロメウスがいつもの無表情で立っていた。モノクルの奥、金の瞳が冷徹に状況を分析している。


「私は好き嫌いでは判断しませんが……。この過剰な糖度は、業務効率を著しく低下させます」

「効率、ですか。私は平和で好きですけど」

「……」


 バルトロメウスは一瞬だけ沈黙し、視線を逸らした。


「……あなたのその『好き』もまた、統計的には城の安定に寄与しているようです。認めざるを得ないのが不本意ですが」

「えへへ、ありがとうございます!」




 その日の午後、アンナは珍しく手痛い失敗をした。執務室へ運ぶはずだった重要書類の束。角を曲がった瞬間、城がゼノスの喜悦に反応して床を一瞬「弾ませた」のだ。


「きゃっ!」


 ばさり、と紙が宙を舞う。床一面に散らばる報告書。


「あ……ああ……」


 血の気が引いた。急いで拾い集めるが、指が震えて順番が分からない。


(……まただ。私は、やっぱりダメな侍女だ……)


 人族の屋敷で浴びせられた罵倒が蘇る。『役立たず』『どん臭い泥棒猫』。視界が滲み、アンナはその場にへたり込んだ。


「何をしているのです」


 低い声が落ちる。バルトロメウスが、アンナの前に膝をついた。


「すみません……私、不注意で。やっぱり、お嬢様の隣にいる資格なんて……」

「理解に苦しみますね。資格?  そのような非論理的な数値で自分を測るのをやめなさい」


 バルトロメウスは無駄のない動きで書類を回収し、瞬時に内容を精査して整えていく。


「床の反発係数の異常による不可抗力です。原因の九割は城の浮かれ具合にあります。あなたの過失は一割にも満たない」

「でも……完璧じゃないと、いつか捨てられちゃうから……」


 震える声。バルトロメウスは手を止め、モノクルを指で押し上げた。


「完璧である必要性を私は確認できない。……それに」


 彼はアンナの顔を、じっと見つめた。不安に揺れる瞳、そして、鼻筋から頬にかけて散る小さな茶色の点───そばかす。


「その配置は、悪くない」

「配置……?」

「星図のようです。無秩序に並んでいるようでいて、全体として一つの調和を保っている。……私の視界に、常に置いておきたい配置だ」


 理解が追いつくまで三秒。


「───えっ!?  それ、あの、褒めて……?」

「事実を述べただけです。……これ以上、自分を卑下するのは効率が悪い。あなたの価値は私が計算済みです」


 立ち上がったバルトロメウスの耳が、わずかに赤いのをアンナは見逃さなかった。





 その夜。アンナは、燃える屋敷からリリアを連れて逃げる悪夢を見て飛び起きた。冷や汗が止まらない。誰かの温もりが欲しくて、気づけば廊下へ走り出していた。




 コンコン、と控えめに叩いた扉。


「……こんな時間に、何の効率的理由が?」


 現れたのは、夜着姿のバルトロメウスだった。


「怖い夢を、見て……。すみません、子供みたいで……」


 バルトロメウスは少しだけ眉を寄せると、無言で扉を大きく開いた。


「恐怖状態を単独で処理するのは非効率です。入ってください」


 執務室のソファに座らされ、厚手の毛布を肩に掛けられる。バルトロメウスは隣に座るわけでもなく、机に向かって淡々と書類を読み始めた。


「……寝なくていいんですか?」

「警戒対象がある状況で睡眠は不可能です」

「警戒対象?」

「あなたの悪夢です。……私がここで監視している限り、あなたの夢に不法侵入者は現れません。安心しなさい」


 そのあまりに理屈っぽい、けれど真っ直ぐな言葉に、アンナは思わず吹き出した。


「ふふっ、変な人。……でも、ありがとうございます」


 やがて、規則正しく紙をめくる音を子守唄に、アンナの意識は遠のいていく。眠りに落ちる寸前、彼女は小さく呟いた。


「……バルト様の手、お星様みたいに綺麗ですね……」


 バルトロメウスの手が止まった。彼は静かに立ち上がり、眠ったアンナの頬に、折れそうなほど優しく指先を触れさせた。


「……非合理的だ。心拍の制御ができない」


 窓の外では満天の星が瞬き、城は静かに主たちの愛を呼吸している。


 不器用な理屈屋と、その心を溶かす少女。主従とは違う絆が、甘い夜の静寂の中で、ゆっくりと、しかし確実に育まれていた。

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