第7話 初めての甘い誘惑と指先の味
魔王城の厨房は、平和な戦場だった。
「アンナ、これ本当に食べ物になるんですか!? さっきからボウルの中で『ピキピキ』って音が……!」
「た、多分なります! ……なりますよね!? この“月影粉”は鮮度が良すぎると鳴くって、バルト様が仰ってましたから!」
リリアとアンナは調理台を挟んで、未知の物体───淡い紫色に光りながら、時折意思を持つかのように震える生地を見つめていた。
リリアの実家ではありえなかった光景だが、二人の間には、もはや主従というより「悪友」に近い軽やかな空気が流れている。
「魔族の粉って、夜になると光るんですね……」
「そうですよ! だから夜食に食べても、お皿のどこにあるかすぐ分かるんです!」
「便利すぎます……!」
二人は顔を見合わせ、同時にふきだした。粉が舞い、リリアの鼻先に白い跡がつく。
「あ、リリア様、動かないで。ついてますよ」
アンナが身を乗り出し、指先でリリアの鼻をちょん、と突く。
「ふふ、お返しです!」
リリアも銀色のクリームをアンナの頬に塗りつける。
「わわっ! 仲良し特権の乱用ですよ!」
「えへへ、仲良しですから!」
屈託なく笑い合う二人。かつて震えていた少女たちは、今や互いの頬を汚し合いながら少女らしい時間を謳歌していた。その様子を天井の魔導ランプが、尊さに耐えかねて「パリン」と微かな音を立てて明滅させた。
「できました……!」
完成したのは、ほんのり銀色に輝くクリームと、夜色の果実をあしらった小さなケーキ。少し形は不格好だが、二人で知恵を絞り(格闘して)作った証だ。
「ゼノス様、喜んでくれるでしょうか」
「絶対喜びます。リリア様が関わると、陛下はすぐ機能停止されますから」
「そんなわけないですよぉ」
リリアは期待と不安を抱え、ゼノスの待つ執務室へと向かった。
執務室。書類に目を通していたゼノスは、廊下から聞こえるリリアの足音に顔を上げた。
「ゼノス様!」
扉が開くと、甘い香りを纏ったリリアが満面の笑みで飛び込んでくる。
「お菓子を作ったんです。……その、ゼノス様に一番に食べてほしくて」
期待に潤んだ桜色の瞳。ゼノスはフォークを取り、一口運んだ。
「……美味いな。毒のような甘さだ」
「毒!?」
「あ、いや。私の好みに合っているという意味だ」
ゼノスが満足げに頷いた、その時だった。
「あっ、クリーム……」
リリアが身を乗り出す。ゼノスの口元に残った、銀色のクリーム。本来なら布で拭えばいい。だが、今のリリアは「あーん」で食事を運ばれ、髪を乾かされる生活に慣れ、彼への警戒心を完全に喪失していた。
リリアが指先を伸ばし、彼の唇の端をそっと撫でる。指先に、ゼノスの唇の柔らかさが触れた。
「───っ」
ゼノスの喉仏が、大きく上下した。反射的に、彼はリリアの手首を掴んでいた。
「あ……」
逃がさない。細い手首が、彼の掌の中で微かに震える。ゼノスはリリアを真っ直ぐに見据えたまま、その指先を、ゆっくりと自分の口内へと招き入れた。
「あ、ん……ゼノス、様……っ?」
指先を舌で絡め取り、クリームを拭い去る。湿った熱。吸い上げられるような感覚。それは、先ほどのお菓子よりもずっと甘く、濃厚な「求愛」の味がした。
ゼノスの瞳が、捕食者のような深い朱色に染まる。
「魔族にとって、これは……単なる食事の作法ではない。もっと、深い意味を持つ」
指を解放したが、ゼノスの声はこれまでにないほど低く、掠れていた。
「お前は、自分が何を誘っているのか分かっているのか」
「ご、ごめんなさい……そんなつもりじゃ……」
「……だろうな。お前のその無自覚が、一番タチが悪い」
ゼノスは椅子に深くのめり込み、額を押さえて絶叫を押し殺した。彼の魔力に呼応し、執務室の窓ガラスがピシリと音を立てる。廊下では季節外れの花が一斉に芽吹き、爆発するように咲き乱れた。
「……今日は、もう下がれ。今すぐだ」
「えっ、でも……」
「……私がお前を『食べて』しまう前に、行け!」
その気迫に押され、リリアは真っ赤な顔で部屋を飛び出した。バタン、と扉が閉まる。
数秒後、執務室内から机を拳で叩く鈍い音が響いた。
「……限界だ。これ以上、この小さな指先に振り回されていては、理性が保たん……!」
主の苦悶を祝福するかのように、魔王城はさらに甘い香りに包まれていく。
一方、廊下で立ち尽くすリリアは、熱を持った自分の指を見つめ、心臓の音をアンナに聞かれないよう必死に抑えていた。




