第6話 その指先が、理性を溶かす
魔王城『黒曜宮』の夜は、静かすぎた。巨大な回廊も、天井から吊られた魔導燭台も、主の昂ぶりを察知したかのように微かに震えている。そんな城の異変に、リリアはまったく気づいていなかった。
「ふぅ……。やっぱり、魔法をお願いすればよかったかな」
湯浴みを終えたリリアは、自室の椅子に腰掛け、溜息をついた。
淡水色の長い髪が、しっとりと重く背中に張り付いている。魔族の侍女たちの乾燥魔法を「これくらいは自分で」と遠慮した結果、布で拭いても拭いても湿り気が取れないのだ。困り果てたその時───。
静かな、けれど有無を言わせぬ重みのあるノックが響いた。
「リリア。起きているか」
「はい、ゼノス様?」
扉が開くと、夜着姿のゼノスが立っていた。普段の正装よりも胸元が緩んだその姿は、男性としての逞しさを強調しており、リリアは思わず視線を泳がせる。ゼノスの朱色の瞳が、濡れたままの彼女の髪を捉えた。
「……髪が乾いていない。風邪を引くぞ」
「あ、はい。自分でお手入れしようと思ったんですけど、意外と大変で……」
ゼノスは無言で歩み寄ると、リリアの背後に回った。
「座っていろ。私がやる」
「えっ!? 陛下にそんなこと、申し訳ありません!」
「私がやりたいのだ。……魔法は使わん。タオルを貸せ」
拒絶を許さない低い声に、リリアは大人しく座り直した。ゼノスは厚手の柔らかなタオルをリリアの頭に被せると、大きな掌でゆっくりと髪を包み込んだ。
───あたたかい。
魔法の熱ではない。タオル越しに伝わる、ゼノスの生身の体温。彼は驚くほど慎重に、まるで脆い絹糸を扱うように水分を吸い取っていく。
「……重くないか?」
「いえ、とっても気持ちいいです。ゼノス様、お上手ですね」
「……」
無邪気なリリアの言葉に、ゼノスは奥歯を噛み締めた。タオル越しとはいえ、指先がリリアの柔らかな頭の形を、そして時折、布の隙間から剥き出しのうなじを掠める。湿り気を帯びた彼女の体温と、薔薇の石鹸の香りが鼻腔を突き、ゼノスの喉がこくりと鳴った。
「あの……ゼノス様?」
「……動くな」
声が、先ほどよりも掠れている。ゼノスの角が微細に震え、不意に、部屋の温度が跳ね上がった。壁の魔導回路が赤く脈打ち、窓の外では季節外れの蕾が一斉に膨らみ始める。
リリアは不思議そうに鏡越しに彼を見上げた。
「なんだか、お部屋が急に熱くなりましたね? ゼノス様、もしかしてお疲れですか? お顔も少し赤いですし……」
そう言って、リリアはあろうことか椅子の上で身体を捻り、心配そうにゼノスの顔を覗き込んだ。はだけた夜着の隙間から、湯上がりの白い肌が露わになる。
「……リリア。自覚を持てと言ったはずだ」
「えっ、きゃっ……!」
気づけば、ゼノスの片手がリリアの顎を掬い上げていた。
タオルがハラリと落ちる。
至近距離で見つめ合う、朱色と桜色の瞳。ゼノスの瞳には、捕食者のような獰猛な独占欲が渦巻いていた。
「お前のその無防備さが、私の理性をどれほど削っているか……分かっているのか」
「あ……う……」
リリアの心臓が、耳元で鳴っているかのように激しく打つ。ゼノスの親指が、彼女の濡れた唇をゆっくりとなぞった。熱い。触れられた場所から溶けてしまいそうな感覚に、リリアは声も出せない。
「……今日は、ここまでだ」
ゼノスは強引に理性の枷を嵌め直すと、パッと手を離した。彼は落ちたタオルを拾い上げ、乱暴にリリアの頭に載せる。
「あとは自分で乾かせ。……これ以上は、お前を寝かせられなくなる」
「……え?」
リリアが呆然とする間もなく、ゼノスは逃げるように部屋を後にした。
廊下に出た瞬間、彼は壁に手をつき、荒い息を吐き出す。
「……限界だ。番の魔力があれほど甘いなど、聞いていないぞ」
ゼノスの激情に呼応し、城の庭園では一斉に大輪の花が狂い咲いた。
一方、部屋に残されたリリアは、熱を持った自分の唇を指でなぞりながら、赤くなった顔を隠すようにタオルに顔を埋めた。
「……どうしよう。私まで、熱くなってきちゃった……」
甘い毒のような熱は、解けるどころか二人の深部まで、じわじわと侵食し始めていた。




