第5話 永遠に解けない溺愛の魔法
黒曜宮の夜は静かだった。昼間の華やかさが嘘のように、城は深い紺色の静寂に包まれている。
リリアは一人、バルコニーに立っていた。夜風が淡水色の髪を揺らす。遠くには魔族の都の灯り。かつて人族の領地で教わった「怪物の巣窟」の光は、今、リリアの瞳には世界で一番温かな居場所として映っていた。
ここへ来てから、数日。凍えていた身体を温められ、傷を癒やされ、誰よりも大切にされて。───あまりに幸せだった。だからこそ、胸の奥で小さな不安が毒のように疼く。
「……私、ここにいてもいいんでしょうか」
言葉が夜風に溶ける。自分はただの供物だった。偶然「番」だったから拾われただけの、何ら価値のない自分。
「ここは……私の居場所じゃない気がして。いつか、夢から覚めてしまうのが怖くて」
「その魔法は、一生解けはしない」
背後から響いたのは、凛とした、けれど慈しみに満ちた声。
振り返る前に、大きな腕がリリアを背後から包み込んだ。ゼノスの体温が伝わり、リリアの震えが止まる。
「なぜそんな顔をする。お前がここにいる理由は、ただ一つだ」
ゼノスはリリアの肩に顎をのせ、耳元で囁く。
「俺が、お前を離したくないと望んだからだ」
「でも、私は何も……。家族にさえ必要とされなかったのに」
「あの愚か者たちの基準で自分を量るな。お前は供物でも、拾い物でもない。……俺の魂の片割れだ」
ゼノスはリリアの正面に回り、彼女の左手を恭しく取った。
彼の指先が空をなぞると、黒銀の光が収束し、一つの指輪が形作られる。中心で脈打つのは、黒曜石よりも深い、朱色の輝き。
「これは、俺の魔力の半分だ」
「……半分? そんな、王様にとって大切な力を……」
「命を半分預けるということだ。リリア、これでお前はこの城の『第二の主』となる。城はお前の心拍に従い、お前の呼吸に合わせて花を咲かせるだろう」
指輪が薬指にはめられた瞬間。黒曜宮全体が共鳴するように、地鳴りのような歓喜の波動が走った。壁の紋章が淡水色に輝き、庭園中の花々が一斉に夜露を弾いて開花する。
リリアの内に、城と、そしてゼノスと繋がったという確かな感覚が流れ込んできた。
「……重いです、ゼノス様」
リリアは溢れ出す涙を拭いもせず、花が咲いたように笑った。
「愛が、重くて……とても幸せです」
ゼノスは満足げに目を細め、彼女の額に誓いの口づけを落とした。
「なら、一生かけてその重さに慣れてもらう。……愛している、リリア」
翌日。陽光が降り注ぐバルコニーでは、賑やかなティータイムが開かれていた。
「お嬢様! このケーキ、口の中で溶けます! 魔法ですか、これ!?」
「ふふ、アンナ。それはきっと魔族領の新しい調理魔導具のおかげよ」
アンナの弾けるような笑顔に、リリアも心からの笑みを返す。
少し離れた場所では、バルトロメウスがいつものように無表情で報告を読み上げていた。
「……陛下の魔力譲渡により、城の半生体構造は完全に安定。リリア様が微笑むだけで防壁が強化されるという、実に『非効率的』ながら強固な要塞となりました」
「そうか。ならばリリアには毎日笑っていてもらわねばな」
ゼノスが紅茶を片手に、誇らしげに答える。
その時、アンナが興奮のあまりテーブルの角に膝をぶつけ、ティーカップが宙を舞った。
「あわわっ!?」
落下する寸前、バルトロメウスの腕がアンナの腰を引き寄せ、もう片方の手でカップを完璧にキャッチする。
「……落ち着きなさい。あなたの不注意を補う時間は、私のスケジュールには入っていません」
「すみません……! でも、助けてくれると思ってました!」
アンナの信頼しきった瞳に、バルトロメウスは僅かに視線を逸らし、耳を赤くして咳払いをした。
「……怪我がないなら、それでいい」
その光景を眺めながら、リリアはゼノスから差し出されたスコーンを「あーん」で受け取った。恥ずかしさはまだあるけれど、もう、拒むことはしない。
秒で実家を焼かれたあの日。絶望の雪原で始まった物語は、今、永遠に解けない溺愛の魔法に包まれて、最高のハッピーエンドを迎えた。
魔王城には今日も、甘い香りと幸せな笑い声が満ち溢れている。




