第4話 角に触れた罪
黒曜宮での生活は、不思議なほど穏やかだった。恐ろしい魔族の城───のはずなのに、そこには人族の領地よりもずっと優しい時間が流れている。
廊下ですれ違う鎧姿の魔族兵たちは、リリアの姿を認めるとピタリと足を止め、胸に手を当てて深く敬礼する。庭園の巨大な魔獣たちでさえ、彼女が通る時は喉を鳴らして道を開ける。
(……どうして、皆さんこんなに温かいんでしょう)
その答えが「王の魔力が彼女を愛し、城全体に反映されているから」だと彼女はまだ知らない。
リリアは、ゼノスに「好きに使うといい」と言われた巨大な書庫へ向かっていた。重厚な扉を開くと、そこには天井まで届く本棚が並び、古書の香りが満ちていた。
「わあ……!」
「気に入ったか」
背後からの声に振り返ると、そこにはゼノスが立っていた。
「はい……! こんなにたくさんの本、見たことがありません」
目を輝かせるリリアを見て、ゼノスは満足そうに口角を上げた。その時、リリアの視線が彼の頭部に伸びる「角」へ向けられた。光を受けて深みのある艶を放つ、黒曜石の角。
(……きれい。不吉なものなんて、嘘みたい)
幼い頃に教えられた「野蛮の象徴」などという偏見は、今の彼女には微塵もなかった。
「あの……ゼノス様」
「どうした」
「その……角に、触れてもいいんでしょうか」
静寂。
書庫の空気が、ゼノスの心臓の鼓動に合わせてドクンと波打った。
魔族にとって角は、感覚と魔力が集中する最も無防備で、最も秘められた部位。親族や伴侶以外に許されるはずのない聖域だ。
「……触る、だと?」
「はい。だめ、でしょうか……? とても綺麗だったので、つい」
純粋な瞳で見上げられ、ゼノスの理性が軋んだ。断るべきだ。番と自覚しているとはいえ、まだ何も知らない彼女には刺激が強すぎる。
───だが。
「……少し、だけだ」
絞り出すような声で、彼は頭をわずかに下げた。
リリアがそっと指先を伸ばす。触れた瞬間、ゼノスの背筋に電流のような衝撃が走った。
「……すごい。温かいんですね」
柔らかな指が角の表面をなぞる。魔力循環が狂い、ゼノスの顔は一瞬で耳まで紅潮した。呼吸が荒くなり、朱色の瞳が潤む。
「ゼノス様? お顔が真っ赤です、熱でも……」
「……問題、ない。手を……離すな」
言葉とは裏腹に、彼は膝をつきそうなほどの悦楽と動揺に耐えていた。
その瞬間、城の魔力回路が過剰に反応し、書庫の花瓶から一斉に魔法の花が噴き出した。城外の兵士たちは、城全体から放たれる「歓喜と激情」の魔力波長に驚き、一斉に足を止めた。
一方、バルトロメウスの執務室。
「あ、あっ……! 申し訳ありません!」
アンナが派手に書類を散らかしていた。バルトロメウスが指を一振りすると、紙束は魔法で整列し、机の上に戻る。
「……無理に働く必要はないと言ったはずです」
「でも、お嬢様のそばにいるなら、私も有能にならないと……」
しょんぼりと肩を落とすアンナ。それを見たバルトロメウスは、眼鏡の奥の瞳を僅かに和らげた。
「役割は既にあります。……君は、大人しく私の視界内にいればいい」
「え?」
「……安全管理と、私の効率維持のためです」
咄嗟に理屈を並べたが、バルトロメウス自身、自分の心拍数が計算外の数値を叩き出していることに当惑していた。
「そっか! 目が届くところにいろってことですね。了解です!」
満開の笑顔で答えるアンナ。バルトロメウスは「非合理的だ」と呟きながら、赤くなった耳を隠すように視線を書類へ戻した。
書庫では、ようやくリリアが手を離していた。
「……ごめんなさい、嫌でしたか?」
「嫌なはずがないだろう」
ゼノスは乱れた呼吸を整え、リリアの手を包み込んだ。
「いいか、リリア。角に触れるのは……私だけにしろ」
「他の魔族の方には、ダメなんですか?」
「ああ。死ぬまで、私だけの特権にしたい。……これは、魔族の文化では『一生を共にする』という誓いと同義なのだから」
「誓い……」
リリアの顔が、今度は真っ赤に染まった。ゼノスはその手を引いて、彼女を優しく抱き寄せる。
窓の外、黒曜宮の庭園では、かつて見たこともないほどの色鮮やかな花々が、主の愛の深さに呼応して咲き乱れていた。
「……もう、どこへも行かせない」
魔王の囁きは、甘く重い呪文のようにリリアの心に染み渡っていく。二人の魔力が完全に混ざり合い、城全体が彼女を「第二の主」として認め始めた瞬間だった。




