第3話 悩みは甘すぎて困ること
朝日が、黒曜宮の窓を淡く染めていた。魔王城に朝が来るなど、昨日までのリリアには想像もできなかったことだ。沈み込むほど柔らかな寝台から起き上がり、彼女はしばらく呆然としていた。
(……夢じゃ、ない)
恐る恐る頬をつねってみる。微かな痛み。本当に、あの凍えるような屋敷ではなく、この温かな城にいるのだ。
扉が快活にノックされた。
「お嬢様、失礼します! 朝ですよ!」
元気な声とともにアンナが入ってくる。深い紺色の上質な侍女服に身を包んだ彼女は、見違えるほど凛として見えた。
「アンナ……!」
「おはようございます! 驚きました、お嬢様。このお城、廊下が自動で掃除されるんですよ! それに蛇口をひねれば、火も使わずに温かいお湯が無限に出てくるんです。魔法ってすごすぎます!」
興奮気味に語る彼女の姿に、リリアは思わず吹き出した。こんなに明るいアンナを見るのは、何年ぶりだろう。
「お嬢様、朝食のご用意が整っております。陛下がお待ちです」
続いて入ってきた侍女の言葉に、リリアは緊張で背筋を伸ばした。
「……わ、私、粗相をせずに食べられるでしょうか」
「大丈夫です! 美味しいものを口に放り込むだけですから!」
案内された食堂は、目が眩むほど豪華だった。だが、リリアが何より圧倒されたのは、並べられた料理の数々だ。
「……え?」
焼きたてのパンだけで数種類、彩り豊かな果物、香りのいいスープ、宝石のような温野菜。一人分とは思えない、文字通りの「山」だった。
「おはよう、リリア。昨夜はよく眠れたか?」
既に席についていたゼノスが、ごく自然に微笑む。その瞬間、背後に控えていた給仕たちが一斉に目を剥き、視線を逸らした。無理もない、鉄血の統治者として知られる魔王が、蕩けるような甘い顔で笑っているのだ。
「お、おはようございます……でも、こんなに食べられません……」
困り果てるリリアを見て、ゼノスは顎に手を当てて考え込んだ。
「そうか。お前はまだ衰弱しているからな。では問題ない」
ゼノスが立ち上がり、リリアの隣へ歩み寄る。次の瞬間、彼女の身体はふわりと持ち上げられた。
「ひゃっ!?」
気づけば、彼の膝の上だった。食堂全体が氷河期のように凍りつく。
「ぜ、ゼノス様!? 何を……!」
「これならお前の負担も減るだろう。さあ、口を開けて」
「え、ええ……?」
「あーん」
絶対的な願いを秘めた朱色の瞳。リリアは真っ赤になりながら、震える唇を開いた。差し出されたスプーンが口に滑り込む。
「……おいしい、です」
「そうか。ならば次はこれだ」
パンも、卵も、果物も。ゼノスはリリアが咀嚼するのを愛おしげに見守りながら、延々と食事を運び続けた。気づけば、あんなにあった料理がすべてリリアのお腹に収まっていた。
「陛下、一言よろしいでしょうか」
食後、バルトロメウスが影のように音もなく近づいた。
「何だ」
「先ほどの行為ですが……。魔族の文化において『口元へ食物を運ぶ』ことは、相手を自身の生存圏の半分と認める正式な求愛表明です」
リリアは持っていた紅茶のカップを落としそうになった。
「き、きゅうあい……っ!?」
顔が沸騰しそうなほど赤くなるリリアを余所に、ゼノスは平然と頷いた。
「知っている。だからこそやったのだ」
「……周知を徹底しろという意味ですね。承知しました」
バルトロメウスは無表情に手帳へ何かを書き込んだ。
その後、リリアの部屋は「宝箱」と化した。運び込まれた十数個の箱には、人族の王族でも一生に一度拝めるかどうかの宝石やドレスが詰め込まれている。
「気に入ったものを選べ。すべて使ってもいい」
「そんな、無理です! 申し訳なくて……」
「なら、私が選んでやろう」
ゼノスは楽しげに、大粒の魔宝石が連なったネックレスをリリアの首に掛けた。
「……っ、重いです」
「まだ足りないか? ではこの指輪も……」
「違います! 物理的に重くて、歩けません……!」
リリアがよろりと膝をつきかけると、ゼノスは即座に彼女をお姫様抱っこした。
「なるほど、装飾品の重量過多か。……ならば俺が運べば済む話だな」
「解決方法が根本的に違います!」
アンナの鋭いツッコミが飛ぶが、ゼノスは上機嫌で廊下へ踏み出した。
廊下ですれ違う魔族の兵士たちが、首飾りに埋もれたまま魔王に運ばれるリリアを見て、無言で敬礼を送る。恥ずかしさでゼノスの胸に顔を埋めるリリアは、確かな温もりの中で思った。
(……地獄から救われたと思ったら、ここは甘すぎる地獄かもしれません)
もちろん、それは彼女にとってこの上なく幸せな悩みだった。少女の凍りついていた時間は、魔王の情熱に溶かされ、急速に色づき始めていた。




