第2話 魔王城は甘い香りに満ちて
視界が光に包まれた次の瞬間。リリア・エルフェンバインは、見知らぬ天井を見上げていた。高い。あまりにも高い。夜空を切り取ったような黒曜石の天井には、魔導光の粒が星のように瞬いている。
「……ここ、は……?」
身体の下は、驚くほど柔らかかった。沈み込むような寝台、触れたこともない滑らかな絹の感触。凍えていたはずの身体は、内側からじんわりと温まっている。
恐る恐る身を起こすと、漆黒の布が肩からずるりと落ちた。
「あ……」
ゼノスの外套だ。その重みと、微かに残る彼の体温を抱きしめるようにして、リリアは周囲を見渡した。
扉が静かに開く。入ってきたのは、深緑の髪を揺らすバルトロメウスだった。
「お目覚めですか。ご安心を、ここは魔王城『黒曜宮』。既に人族の領地からは遥か遠く、安全な場所です」
バルトロメウスの金の瞳が、事務的ながらも細められる。
「侍女のアンナも別室で保護しています。彼女は現在、当城の最新魔導設備による治療と洗浄の最中です。命に別状はありません」
「……よかった」
その一言で、リリアの緊張がほどけ、涙が滲んだ。バルトロメウスはその涙を一瞥し、淡々と、しかし拒めない口調で告げた。
「では、あなたも準備を。主が最高級の湯を用意させています」
案内された浴場に、リリアは息を呑んだ。それは単なる「風呂」ではなかった。広大な大理石の空間、湯気の向こうで揺れるのは無数の深紅の薔薇。
だが何より驚いたのは、リリアが足を踏み入れた瞬間、壁を這う魔導回路が淡水色に輝き、室温が彼女の体温に合わせて最適化されたことだ。
「……わたしが、本当に入っていい場所なんでしょうか?」
後ずさるリリアに、侍女たちが柔らかな微笑みを向ける。
「もちろんでございます、王妃候補様。この城自体が、あなたを歓迎しておりますのよ」
「おうひ……っ!?」
混乱する間もなく、リリアは手際よく衣服を脱がされ、湯船へと導かれた。触れられる手は、驚くほど丁寧だった。これまで「汚れ」として扱われてきた自分の身体が、ここでは「至宝」のように扱われる。お湯に沈み込んだ瞬間、リリアは声を漏らした。
「……あたたかい」
薔薇の香りと、不思議な魔力が肌に染み込んでいく。あかぎれだらけだった指先も、泥にまみれた爪先も、過去の痛みごと溶けていくようだった。
湯上がり。鏡の前に導かれたリリアは、絶句した。
「───これ、は……」
そこにいたのは、見たこともない少女だった。艶やかに波打つ淡水色の髪。桜色の瞳は潤み、雪のような肌は血色を取り戻して発光している。
「……知らない人みたい」
その呟きを、背後で聞いた者がいた。
扉を押し開けて現れたのは、ゼノスだった。彼はリリアを見た瞬間、雷に打たれたように足を止めた。
「……っ」
理性が軋む音がした。湯気を纏い、純白の室内着に身を包んだリリア。その周囲では、城の魔力に応じるように壁飾りの花が次々と開花し、光の粒が舞っている。
「……ゼノス、様?」
名を呼ばれた瞬間、ゼノスの絶対的な合理主義は霧散した。彼は無意識に歩み寄り、リリアの頬を大きな掌で包み込む。
「本来の君は、これほどまでに……」
「あの、私……」
「綺麗だ」
熱い吐息とともに紡がれた言葉に、リリアの顔が真っ赤に染まる。ゼノスの朱い瞳に宿る独占欲が、隠しようもなく溢れ出していた。
「離さない。……一生、私の側にいろ」
それは願いではなく、世界の理を書き換えるような、絶対的な宣言だった。
一方、別の廊下では。
「……火傷、残りませんか?」
不安げに腕を見るアンナの前に、バルトロメウスが無機質に立っていた。
「当城の治癒魔法を侮らないでいただきたい」
彼が指をかざすと、柔らかな光がアンナの腕を包む。煤も、火傷も、一瞬で消滅した。
「す、すごい! まるで魔法みたい……って、魔法か!」
感嘆の声を上げ、満面の笑みで「ありがとうございます!」と頭を下げるアンナ。魔族を、そして自分を恐れない人族。バルトロメウスの計算回路が、一瞬だけ停止した。
「……職務を与えます。あなたはリリア様の筆頭侍女に任命されました。これは陛下の決定ですが、私の『効率的判断』でもあります」
「筆頭侍女……。頑張ります! 私、お嬢様のためなら火の中だって行けますから!」
拳を握る彼女の笑顔を見た瞬間、バルトロメウスの胸に、説明のつかない「ノイズ」が走る。
「……非効率だな、君は」
彼は冷たく言い捨てて背を向けたが、その歩幅は、アンナがついてきやすいよう絶妙に調整されていた。
その夜。リリアに与えられた寝室は、彼女が「安心」を感じるよう、ゼノスの魔力が満ちていた。
窓の外には、文明の灯りがきらめく魔族の都。かつて教えられた「恐ろしい怪物たちの住処」は、今、世界で一番優しい場所に見えた。
ノックと共に現れたゼノスが、当然のように寝台の側に腰掛ける。
「……怖くはないか」
「はい。不思議なくらい……あたたかくて」
ゼノスは満足げに目を細め、彼女の髪を一房、愛おしそうに指に絡めた。城の壁から、祝福のように小さな光の蝶が生まれ、夜の闇に舞い上がる。
不幸だった少女の人生。その上書きは、あまりにも甘く、鮮やかに始まった。




