第15話 永遠に解けない、幸せの魔法
その朝、魔王城『黒曜宮』は、かつてない国家存亡の危機───を装った、最大級の「勘違い」に揺れていた。廊下を軍靴の音が激しく鳴らし、城内通信の魔石は過負荷で火花を散らしている。
「陛下、落ち着いてください。いえ、落ち着けと言っても無駄なのは計算済みですが」
バルトが、割れそうなほど脈打つこめかみを押さえ、深いため息をついた。
「……リリア様が、今朝のパンを一口も召し上がらなかった。報告はそれだけです」
その瞬間、玉座の間の空気がマイナス四十度まで急降下した。
「……医師を呼べ」
ゼノスの朱い瞳が、本気の殺気を孕んで細められる。
「城の全医療班、聖教国から亡命してきた高位治癒術師、薬草学の権威をすべてリリアの寝室に叩き込め。一秒だ。一秒遅れるごとに世界を一つずつ焼く」
「既に三秒経過していますが、世界は無事です。医療班は既に寝室前で待機、助産師も念のため五名確保しました」
バルトは淡々と、しかし迅速に「懐妊」を前提とした布陣を報告する。
「……懐妊か」
その言葉を口にした瞬間、魔王の魔力が黄金色の歓喜となって爆発した。城の壁に、季節外れの薔薇が数万輪いっせいに咲き乱れる。
「魔界全土に布告しろ。今日を新たな建国記念日とする。祭りの準備だ。リリアに似た水色の髪の天使が生まれるのだ、国中の宝石を買い占めておけ」
「……ですから、まだ確定しておりません」
その頃、当のリリアは寝台の上で、消え入りそうな声で呻いていた。
「うぅ……お腹が、重いです……」
「お嬢様! しっかりしてください! 意識はありますか!? 私の名前が分かりますか!?」
アンナが涙目でリリアの手を握りしめている。そこへ、扉を物理的に破壊する勢いでゼノスがなだれ込んできた。
「リリア!!」
ゼノスはリリアを壊れ物を扱うように抱き寄せ、その額に手を当てた。
「苦しいか、リリア。すまない、俺の愛が重すぎたか、それとも魔力が障ったか……。案ずるな、お前とお前の中に宿る命は、俺が全霊をかけて───」
そこへ、バルトに引きずられた老医師が、震えながら診断を下した。
「……あの、陛下。申し上げにくいのですが」
「言え。絶望的な診断なら、この国ごと冥府へ連れていく準備はできている」
「いえ、あの……単なる『食べ過ぎ』です」
静寂。
城の振動が、ピタリと止まった。
「……食べ過ぎ?」
「はい。昨夜、リリア様は『ゼノス様が残すと悲しむから』と、特大の夜食ケーキを三つ、アンナ様と試作した深夜のチョコを一箱、完食されておりまして……完全に胃もたれです」
沈黙。ゼノスは数秒、石像のように固まった。そして、真っ赤になって俯くリリアをじっと見つめ───。
「……そうか。無事でよかった」
深すぎる、そして安堵に満ちたため息。ゼノスは彼女を強く抱きしめた。懐妊でなかった落胆よりも、彼女が苦しんでいる原因が「自分の過保護(食べさせすぎ)」と「彼女の優しさ」だったことへの愛おしさが勝ったのだ。
「……ごめんなさい、ゼノス様。私、食いしん坊で……」
「謝るな。美味そうに食うお前が悪い。……いや、食わせすぎる俺が悪い。今日からは、一口ごとに俺が検食して管理してやる」
「えぇっ!? それは恥ずかしいです!」
廊下では、バルトが「祭りの準備、撤収」と非情な指示を出していた。
その日の夕暮れ。魔王城のバルコニーで、二組の男女が並んでいた。
アンナに「私の視界にいろ(=永遠に離さない)」と彼なりの計算式みたいな告白を叩きつけたバルトと、それを受けて顔を真っ赤にしながらも、彼の淹れた茶を嬉しそうに飲むアンナ。
そして、ゼノスの腕の中にすっぽりと収まり、魔界の美しい夕闇を見つめるリリア。
「ゼノス様」
「なんだ」
「私……あの雪の日に、あなたに攫われて、本当によかったです」
リリアが幸せそうに目を細める。実家で「無能」と蔑まれ、凍えていた日々が、遠い前世のことのように思える。
「……攫った覚えはないと言っただろう」
ゼノスは彼女の指に光る、自分の魔力の半分───魂の結晶を見つめ、熱く囁いた。
「俺はただ、俺の命の片割れを、あるべき場所へ迎えに行っただけだ」
ゼノスはリリアの首筋に顔を埋め、深く、深く愛を誓う。
「リリア。お前にかけた溺愛の魔法は、死が二人を分かつまで、いや、魂が砕けて混ざり合うまで、一生解いてはやらないからな」
リリアは笑って、彼の角にそっと触れた。
「はい。……ずっと、かかってあげます」
幸せは、時に騒がしく、時に甘すぎて胃もたれするけれど。この城に満ちる温かな魔法は、永遠に、二人を包み込み続ける。




