第14話 世界で一番小さな「盾」
魔王城の夜は、静寂に支配されている。黒曜石のバルコニーに立つリリアの淡水色の髪を、魔界特有の冷たい夜風が優しく撫でていた。
「きれい……」
見上げた紫の夜空には、宝石をぶちまけたような星々。人族の国で虐げられていた頃には、空を見上げる余裕さえなかった。
背後から、リリアの心臓の鼓動を落ち着かせる、あの低い声が届く。
「夜風は冷えると言ったはずだ」
振り向くと、ゼノスがいた。漆黒の外套を羽織った魔王は、リリアの隣に立つと、当然のようにその肩を抱き寄せた。
「ゼノス様……。私、ここに来られて、本当に幸せです」
リリアが彼の胸に頬を寄せ、無邪気に微笑む。その瞬間、ゼノスの朱い瞳が蕩けるように細まった。───だが、甘い時間は一瞬で切り裂かれる。
「……ッ、伏せろ!」
ゼノスの瞳が鋭く光ったのと、虚空から黒い影が躍り出たのは同時だった。
魔族の強硬派が放った暗殺者。その手にある短剣には、魔王の肉体をも腐食させる紫の毒が塗り込まれている。
狙いは、ゼノスの無防備な背後。魔王の反射速度なら回避は可能だった。───しかし、リリアの反応は、それを上回る「本能」だった。
「だめ!!」
リリアが動いた。ゼノスの腕の中からすり抜け、彼の前に立ちはだかる。震える両腕を広げ、その小さな体ですべてを遮るように。
「私の大事な人に、触らないで……!」
少女の絶叫が夜を裂いた瞬間、世界が震撼した。
───ドォォォン!!
リリアの指に嵌められた指輪───ゼノスの魔力の半分を宿した結晶が、彼女の「守りたい」という情動に呼応して暴走した。蒼金色の光が爆発し、魔王城そのものが彼女の意志に跪く。
出現したのは、絶対不可侵の防壁。刺客の短剣は、その光の壁に触れた瞬間に粉々に砕け散り、暗殺者自身も衝撃波で吹き飛ばされた。
「な……人族の、小娘が……魔王を、守っただと……?」
刺客が絶望の声を漏らす。
魔族にとって、番が王を守るという行為は、命を賭した最大の愛の誓い。ただの人族のはずの少女が、魔王の魔力を完璧に使いこなし、その守護者となったのだ。
ゼノスは、動けなかった。目の前に広がる、自分を守るために震えながら立つ、小さな背中。
「……リリア」
胸の奥が、壊れるほどに鳴る。生まれてから一度だって、誰かに守られたことなどなかった。最強の魔王として畏怖され、独りで玉座に立ち続けてきた自分を。
この少女は、ただ「大事だから」という、ただそれだけの理由で、死の前に立った。
「……おのれ」
ゼノスの底から、冷徹な殺意が溢れ出した。リリアを背後に隠し、一歩前へ出る。彼の影が巨大な獣のように広がり、刺客を絡め取った。
「私のリリアに、このような真似をさせた罪……。死よりも深い絶望の中で購え」
言葉と同時に、刺客は音もなく闇に飲み込まれ、消滅した。静寂が戻る。リリアの肩から力が抜け、膝が折れそうになった。
「リリア!」
ゼノスは、かつてないほど激しい動揺を見せながら、彼女を抱き留めた。抱き締める腕が、微かに震えている。
「大丈夫か!? どこか痛むか、怪我はないか! なぜあんな真似をした、お前に何かあれば、私は……!」
「……えへへ、ゼノス様が、無事でよかった」
リリアは彼の胸に顔を埋め、安堵したように息を吐いた。ゼノスは絶句し、彼女の頬を両手で包み込んだ。
「……守られるなど、初めてだ」
低く、掠れた声。最強の魔王が、一人の少女に完敗した瞬間だった。
「リリア。……お前は本当に、俺を狂わせる。愛おしすぎて、どうにかなりそうだ」
ゼノスの朱い瞳に、熱い独占欲と、それを上回る深い崇拝の光が宿る。彼はリリアを軽々とお姫様抱っこし、耳元で熱く、呪いのような誓いを囁いた。
「もう二度と、私の前を歩かせない。……一生、私の腕の中で、甘やかされていろ」
リリアが幸せそうに目を閉じる。魔王城は、リリアの勝利を祝うように、夜咲きの花々をいっせいに開花させ、甘い香りで二人を包み込んだ。
世界で一番小さな盾が、世界で一番強い王を、完全に陥落させた夜だった。




