第13話 理屈と星図の「計算違い」
魔王城の夜は、昼よりも静寂が深い。巨大な回廊には魔力灯が蒼い光を落とし、窓の外には人族の国では決して見ることのできない、濃密で魔力に満ちた星空が広がっていた。
その光を見上げながら、アンナは独り歩いていた。主であるリリアは今頃、ゼノスの腕の中で甘い夢を見ているはずだ。
「……すごいなぁ」
ぽつりと呟く。温かい食事、平和な暮らし、そしてリリアの笑顔。けれど、アンナの胸の奥には、小さな棘が刺さっていた。自分はただの侍女。魔王城にいる理由など本来はないはずなのだ。
「星を眺めながら、非生産的な悩みに耽る趣味がありましたか」
低い声が背後から響き、アンナは心臓が口から飛び出しそうになった。
「ひゃっ! ……バ、バルト様!」
「様は不要だと言っています」
そこに立っていたのは、深緑の髪を一つに結んだ魔王の右腕・バルトロメウスだった。黒い執事服に身を包み、モノクルの奥で金の瞳が冷徹にアンナを射抜いている。
「……何を考えていたのです。心拍数が平時の1.2倍に上昇していますが」
「え、あ……私、ここにいていいのかなって。ただの人族の侍女なのに、こんなに良くしてもらって、変じゃないですか?」
アンナが自嘲気味に笑う。その瞬間、沈黙が落ちた。バルトが音もなく一歩踏み出し、アンナとの距離をゼロにする。
「……ほう。あなたの思考回路は、これほど手厚い待遇を受けてなお『不安』というノイズを出力するのですか。極めて非効率だ」
「だって、私なんて何の役にも……」
「黙りなさい」
強い口調。アンナが瞬きをする間に、バルトの大きな手が彼女の腰を強引に引き寄せた。
「ひゃっ……!?」
薄い布越しに伝わる、魔族特有の熱い体温。アンナは彼の胸に閉じ込められ、逃げ場を失った。
「私は普段、物事をすべて数式で処理します。人員配置、資源管理、魔力の最適化……この城のすべては私の計算の上に成り立っている」
バルトの声が、耳元で低く、重く響く。
「ですが、あなたは私の計算に存在しなかった――最大級の変数だ」
「……へ、変数?」
「ええ。あなたが来てから、私のスケジュールは崩壊し、予測モデルは無意味になった。あなたの些細な挙動一つで、私の思考リソースは100%占有される。これは『事変』と言っていいレベルだ」
バルトの指先が、アンナの顎をくいと持ち上げる。抗えない力。アンナの頬が火を吹いたように熱くなる。
「責任を取ってください。アンナ」
「せ、責任!? 掃除とか、お洗濯とかを倍にすればいいんですか!?」
「いいえ。……これから一生、私の視界を独占し、私の隣で呼吸し続けなさい。他の誰にも、あなたのその『星図』のようなそばかすを見せることは許しません」
独占欲。冷徹な事務官の口から出たとは思えない、あまりに傲慢で熱い言葉。アンナが言葉を失っていると、バルトはふっと細い息を吐いた。
───カチリ。
小さな音を立てて、彼は一生外さないと思われていたモノクルを外した。
「……あっ」
アンナは息を呑んだ。剥き出しになった両の金瞳。そこには、知性を焼き尽くすほどの、剥き出しの「欲」が宿っていた。
「……そんな顔をされると。もはや計算など、どうでもよくなる」
次の瞬間、彼の唇がアンナの言葉を塞いだ。リリアへの優しさとは違う、貪欲で、有無を言わせぬ略奪のような口付け。
「ん……む、ぅ……」
アンナの脳内が真っ白に弾ける。バルトの手が彼女の背中に回り、骨が軋むほど強く抱き寄せた。理性的だったはずの彼の呼吸が、獣のように荒くなっていく。
ようやく唇が離れたとき、アンナの視界は涙で潤んでいた。バルトは彼女の耳元に唇を寄せ、熱い吐息とともに囁く。
「……やはり。これは計算外だ」
彼はアンナの首筋に顔を埋め、独占欲を誇示するように、柔らかな肌を甘く噛んだ。
「心拍数が止まらない。……今夜は、あなたを私の部屋から出す選択肢は、計算モデルから削除しました」
星空の下。アンナは逃げ出すことも忘れ、自分を「変数」と呼んだ男の背中に、そっと腕を回した。魔王城にまた一組、理性が溶け去った主従が誕生した瞬間だった。




