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秒で番(つがい)の屋敷を焼いた魔王 ~過保護な陛下は、愛しき小鳥を檻から救い出す~  作者: 宮野夏樹


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第11話 朝の結界と世界一過保護な「指先」


 魔王城『黒曜宮』の朝は、静寂に満ちているはずだった。天蓋付きの広い寝台。シーツの海の中で、リリアはゆっくりと瞳を開けた。全身を包むのは、沈み込むような柔らかな感触と───そして、肌に直接伝わる、熱いほどの体温。


「……ん」


 微かな吐息とともに顔を上げれば、すぐ目の前にゼノスの寝顔があった。


 普段の鋭い威圧感は消え、漆黒の睫毛が影を落とすその表情は、ひどく穏やかだ。けれど、リリアの腰を抱き寄せる腕の力は、眠っていてもなお「決して離さない」という執念を感じさせるほどに強かった。


(……夢じゃ、なかったんだ)


 昨夜の記憶が、鮮烈な熱を伴って蘇る。重なった唇、肌を滑る大きな掌、そして、壊れ物を扱うように、けれど情熱的に自分を求めた彼の朱い瞳。


 リリアの薬指で脈打つ指輪が、彼の心拍と完全に同期して、ドクン、ドクンと甘い疼きを伝えてくる。リリアは真っ赤になりながら、そっと彼の胸板に手を置いた。すると、ゼノスが薄すらと目を開ける。朱色の瞳が、朝の光の中で蕩けたようにリリアを射抜いた。


「……おはよう、リリア」

「ぜ、ゼノス様……おはようございます」


 まだ熱を帯びた声で名を呼ばれ、リリアが縮こまると、ゼノスは彼女の首筋に顔を埋め、深く香りを吸い込んだ。


「まだ離さん。……このまま、一日中こうしていたい」

「だ、めですよ。陛下なんですから、お仕事が……っ」


 甘い痺れを振り払うようにして、リリアは這い出した。逃げるように向かった先は、心を落ち着かせるためのキッチン───それが、数分後に城中を揺るがす大騒動の引き金になるとは知らずに。




「陛下、落ち着いてください!」


 城の回廊を、重装備の魔族たちが全力疾走していた。


「第一防衛部隊、配置につけ!」

「結界最大出力!  黒曜の壁を展開せよ!」

「医療班を呼べ!  聖域級の治癒魔法を用意しろ!」

「毒の可能性もある、周辺の空気成分を即刻洗浄せよ!」


 ゴォン、ゴォン、と重苦しい緊急鐘が鳴り響き、城全体が激しい振動にさらされる。魔王城は完全に「国家存亡の危機」を想定した戦闘体勢に入っていた。


 その理由。───リリアの指先。




 その頃、当のリリアは。


「……あら?」


 厨房で首を傾げていた。エプロンを締め、淡水色の髪をゆるくまとめた姿。昨夜の余韻を振り払おうと、夢中でパンの生地を練っていた彼女の隣で、アンナが心配そうに覗き込む。


「どうしました、リリア様?」

「ささくれ、できちゃいました」


 リリアは右手を見せた。親指の横、ほんの数ミリの皮がめくれている。「まあ!」とアンナは真剣な顔になった。


「少し待ってくださいね、すぐに消毒を───」


 その瞬間だった。


 ズドン!!  と爆音を立てて、厨房の防壁扉が粉砕された。


「リリア!!」


 現れたのはゼノスだった。寝起きの甘さは微塵もなく、漆黒のマントを翻し、角を怒りに震わせた姿。その朱い瞳は、世界を敵に回したような臨戦状態だ。


「どこだ!  傷はどこだ、リリア!」


 城中を凍りつかせるような絶叫。リリアはきょとんとして指を見せる。


「えっと……ここ?」


 沈黙。ゼノスは数秒、石像のように固まった。そして次の瞬間、最強の魔王は崩れ落ちるようにその場に膝をついた。


「……誰だ。誰がやった」


 地を這うような低い声。魔力が渦を巻き、厨房の窓ガラスがビリビリと悲鳴を上げる。


「敵か。人族の刺客か。あるいは城内の不届き物か」

「……え?  敵……?」

「安心しろ、リリア」


 ゼノスは、今までに見たこともないほど冷徹で、かつ真剣な瞳で告げた。


「元凶を突き止め、世界を焼く」

「焼かないでください」


 即座に、バルトロメウスの冷ややかな声が差し込まれた。彼は扉の残骸の横でモノクルを押し上げ、深く、深いため息をつく。


「陛下。それはただの『ささくれ』です。乾燥による皮膚の剥離です」

「血が出ている」

「出ていません」

「リリアの痛覚が反応した可能性がある。これは『事変』だ」

「軍を動かす理由には一ミリもなり得ません。兵たちが混乱しています、解散を」


 厨房の外では、死を覚悟した魔族兵たちが「陛下!  命令を!」と絶叫している。ゼノスは忌々しげに振り返り、「……待機だ。この件は国家機密とする」と命じた。バルトロメウスが、ついに額を押さえた。


「陛下。絆創膏一枚のために、国家予算並みの魔力消費をさせないでください。非効率極まりない」

「リリアの血は国宝だ。一滴でも零れるなら、世界が滅ぶべきだ」


 ゼノスは本気だった。昨夜、その肌に触れ、彼女の脆さと愛おしさを知ってしまった後の彼は、過保護の次元を突き抜けていた。


 リリアは、クスクスと笑い声を漏らした。膝をついたままのゼノスの元へ歩み寄り、その漆黒の角の付け根にそっと手を触れる。


「ゼノス様、大丈夫ですよ。ほら、全然痛くないです」


 ゼノスはその指先を、まるで消えてしまう幻影を繋ぎ止めるように、両手で恭しく持ち上げた。


「……治癒」


 神罰のような強大な魔力が、たかが「ささくれ」一箇所を治すためだけに贅沢に投じられた。皮が戻った後も、彼は指を離さない。


「……今後、刃物と火、そして乾燥を伴う作業は一切禁止だ。料理も、だ」

「えぇ!?  そんなぁ……楽しみにしてたのに」


 しょんぼりとするリリアを見て、ゼノスは葛藤に表情を歪ませる。だが、リリアは首を傾げて彼を見上げた。


「じゃあ……ゼノス様が、一緒に料理してくれますか?」


 厨房が、再び静まり返った。魔王は数秒、絶句した。そして───。


「……それなら、私がすべての危険因子からお前を護れるな。許可する」


 バルトロメウスが静かに天井を見上げた。


「……今日の閣僚会議は中止ですね。国政が止まりました」


 その日、魔王城の厨房では。エプロンをつけた魔王が、リリアの指示で真剣に卵を割るという、神話にも残らない奇跡のような光景が展開された。城中の魔族たちは、扉の隙間からそれを見て、確信する。


 この国は、今日も平和だ。ただし───魔王の理性は、昨夜の甘い毒によって、完全に溶け去っていた。


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