第10話 世界一甘い毒は、主の唇から
魔王城の夜は、静かだった。だがその静寂は、すべての防壁が「愛の魔力」によって内側から溶かされる前の、嵐の前の静けさに過ぎなかった。
黒曜の尖塔から戻った後、リリアは自室で落ち着きなく歩き回っていた。
「……どうしましょう」
胸を打つ鼓動が、かつてないほど速い。あの塔で、ゼノスの腕の中で聞いた言葉、そして、額が触れそうなほどの距離で見つめられた朱色の瞳。
「顔……近すぎました……っ」
思い出すだけで、湯上がりの肌が再び熱を帯びる。
その時、右手の薬指にはめた指輪が、呼応するように淡く脈打ち始めた。ゼノスの魔力の半分を分かち合った、魂の契約。指輪を通して、彼の「飢え」と「熱」が、リリアの心へ直接流れ込んでくる。
コンコン。
扉が叩かれた瞬間、リリアの心臓が口から飛び出しそうになった。
「……は、はい」
扉が開く。現れた魔王は、いつもの覇気とは異なる、濃密で逃げ場のない色気を纏っていた。
「眠れないのか、リリア」
「少し……。ゼノス様も、ですか?」
「……私の魔力が、お前を求めて暴れている」
ゼノスはゆっくりと、獲物を追い詰める獣のような足取りで近づいた。指輪が強く光る。二人の鼓動が完全に同期し、部屋の空気が火照ったように揺らぎ始めた。
「リリア。お前は本当に、罪な女だ」
ゼノスの手がリリアの頬を包み、親指が彼女の唇をゆっくりと、押し潰すようになぞる。
「無自覚に俺を煽り、指を舐めさせ、塔の上であんな顔を見せて……。もう、限界だ」
「煽ってなんて……っ、私は、ただ……」
「今からすることを、拒むか?」
朱色の瞳が、選択を求めて揺れる。リリアは逃げなかった。潤んだ瞳で彼を見つめ、指輪をはめた手を彼の胸板に添える。
「……拒みません。だって、私をこんなに熱くしたのは、ゼノス様です」
その無垢な反撃が、魔王の理性を粉々に粉砕した。
ゼノスの手がリリアの腰を抱き寄せ、骨が軋むほど強く引き寄せた。
「……後悔しても、もう離してはやらない」
重なった唇。それは、これまでの優しさを脱ぎ捨てた、貪るようなキスだった。熱い舌がリリアの口内を蹂躙し、彼女の甘い吐息をすべて飲み込んでいく。
───その瞬間。リリアの指輪から、歓喜に満ちた膨大な魔力が爆発的に解放された。
ドォォォォン……!
城全体が、歓喜の悲鳴を上げるように震えた。廊下には薔薇の蔦が瞬時に這い回り、城内の至る所から、嗅ぐだけで思考がトロトロに溶ける「黄金の霧」が噴き出した。城そのものが、主たちの結合を祝し、濃厚な媚薬の香りを撒き散らす装置へと変貌したのだ。
「……っ、これは、想定外ですね」
執務室で、バルトロメウスがモノクルを落としそうになりながら立ち上がった。窓から流れ込む、桃色の霧。思考が、計算が、理屈が、甘い熱に侵食されていく。
「バルト様……なんだか、お部屋が甘い匂いでいっぱいです……」
アンナが真っ赤な顔で、ふらふらと彼に縋り付いた。
「アンナ……。離れなさい。今の私は、あなたを『効率的』に扱う自信がありません」
「嫌です。……離したくないです……バルト様……っ」
潤んだ瞳で服の袖を引くアンナ。バルトロメウスは、眼鏡の奥の瞳を獣のように細めた。
「……非合理的ですが、本能に従うのも一つの解決策です」
彼はアンナを軽々と抱き上げると、机の上の書類を乱暴に払い、彼女をそこへ座らせた。
魔王の寝室。リリアはゼノスの腕の中で、溶けきった飴のように蕩けていた。
「はぁ……はぁ……、ゼノス様……身体が、おかしいです……」
甘い霧が部屋を満たし、リリアの視界は白濁している。唇は赤く腫れ、瞳には涙が浮かんでいた。
「当然だ。お前の幸福が、この城を……そして私を、完全に狂わせた」
ゼノスはリリアを横抱きにすると、広大な天蓋付きの寝台へと運んだ。柔らかなシーツに沈み込むリリア。その上を、飢えた魔王の影が覆う。
「覚悟しろ、リリア」
耳元で囁かれる、掠れた声。
「朝まで、何度でも愛してやる。お前の心も、身体も、その爪の先まで……俺の魔力で塗り潰してやるからな」
朱色の瞳が、夜の闇の中で獰猛に輝いた。リリアは熱に浮かされながらも、愛おしそうに彼の手を握りしめる。
その夜、魔王城は朝まで甘い溜息に包まれ、季節を無視した百花が城壁を埋め尽くした。最強の魔王と、その理性を一撃で破壊する少女。二人の本当の物語は、この「甘い毒」の夜から、さらに深く、溶け合うように始まっていく。




