第1話 地獄の終わりは空から来る
雪が、静かに降っていた。吐く息は白く、指先はもう感覚がない。
それでもリリア・エルフェンバインは、庭の石畳を磨き続けていた。凍った水桶に手を突っ込み、ぼろ布を絞るたび、皮膚が裂けるように痛む。
「まだ終わらないの? 本当に役立たずね」
背後から落ちてきた声に、肩が小さく震える。振り返らなくても分かる。異母姉だ。
「……申し訳、ありません」
「謝る暇があるなら手を動かしなさい。今日は大事な日なのよ? 本当、妾の子は愚鈍で困るわ」
申し訳ありません、とリリアは小さく謝罪した。
───今日は、自分が“供物”になる日だ。
魔族の王へ捧げられる、生贄。そう聞かされたのは三日前だった。
国境伯爵家であるエルフェンバイン家は没落寸前。無理な投資と放蕩で財政は破綻し、残された道はただ一つ。
「魔王に媚びを売る」
それだけだった。
魔族は恐ろしい存在だと、幼い頃から教え込まれてきた。角を持つ異形。不可解な魔導技術を操る、理解不能な隣人。けれど───。
(……200年もの間、一度も攻めてこなかった人たちなのに)
ふと浮かんだ疑問を、リリアはすぐ胸の奥へ押し込めた。
考えることは許されない。自分は父が手を出したメイドの子で、この家の「不要品」であり、最後に利用されるだけの道具なのだから。
「ほら、もういいわ。着替えなさい」
差し出されたのは、白い薄布のドレスだった。冬に着るものではない。
「……はい」
逆らう理由はない。どうせ今日で、この凍えるような日々は終わるのだ。
屋敷の中庭には、家族全員が集まっていた。父は豪奢な外套をまとい、継母は涙ぐむふりをしている。
「魔王様は必ず来られるのだな?」
「ええ、陛下へ直接親書を送りましたもの。『我が家の至宝を、友好の証として捧げたい』と。あちらも話が早くて助かりましたわ。これでまた融資が受けられますわね」
彼らの会話は、まるで家畜の競りだ。リリアは裸足のまま石畳に立たされる。冷たさが骨まで染みた。
その瞬間。空気が、重く澄んだものへと変わった。風が止み、雪が───落ちる途中で静止する。
「……え?」
空が裂けた。黒い光が降りる。圧倒的な魔力波長。父たちはその圧迫感に顔を青ざめさせ、悲鳴を押し殺して地面に這いつくばった。
「な、なんだこの力は……! やはり魔族は、野蛮な怪物……!」
恐怖に震え、目を逸らす家族たち。けれど、リリアだけは違った。
(……あたたかい)
冬の中で、そこだけ春の陽だまりに包まれたような感覚。
黒衣の男が、ゆっくりと地面へ降り立つ。漆黒の短髪、朱色の瞳、そして───黒曜石のように鋭く、美しい角。
魔族の王。ゼノス・ヴァル=アザリエルは、地面で震える「国境の権力者」たちには一瞥すらくれず、まっすぐ歩く。そして、リリアの前で。最強の魔王が、静かに跪いた。
「……ようやく見つけた」
低く、甘い声だった。リリアを見上げる赤い瞳には、底知れない熱と、慈しみが宿っている。
「え……?」
「寒かったな。……もう、我慢しなくていい」
ゼノスが自身の外套を脱ぎ、リリアの肩へ掛けた。彼の指先が触れた瞬間、リリアの凍りついていた心臓が、大きく跳ねる。
「魔王様! そ、その娘は供物です! 差し上げますから、どうか我が家に黄金と加護を───!」
父の卑屈な声に、ゼノスの視線が初めて動いた。氷のように冷徹な一瞥。
「供物だと? ……貴様ら、私の『番』を何だと思っている」
ゼノスが低く呟き、指を鳴らした。
───パチン。
瞬間、黒い炎が屋敷を包み込んだ。熱くない。けれど、屋敷の壁が、柱が、中に詰め込まれた豪華な家具や宝石が、音もなく「黒い塵」へと変わっていく。
「ひ、ああっ!? わたしのドレスが! 宝石が!!」
「屋敷が……! 我が家の財産が消えていく……!」
姉と母が絶叫する。ゼノスが放ったのは、リリアを虐げた「舞台」そのものを消去する炎。
家族たちは、燃え盛る黒炎の中で、自分たちが何より執着していた「金目の物」が、ただの灰になっていく光景に顔を歪め、雪の上に崩れ落ちた。
「やめろ、やめてくれ! 建物がなくなったら、我々はどうすれば……!」
「知らぬ。お前たちが彼女に与えた寒さを、今度は自分たちで味わうがいい」
ゼノスはそれ以上、彼らの言葉を聞こうとしなかった。リリアを壊れ物のように優しく抱き上げる。
「お嬢様ぁ!!」
そこへ、煤だらけの侍女アンナが走ってきた。彼女は、燃え上がる屋敷からたった一つ、リリアの母の形見のペンダントだけを握りしめていた。
「これだけは、これだけは守りました!」
「アンナ……!」
ゼノスの傍らに立つ右腕、バルトロメウスが、アンナの無鉄砲さを観察し、無機質に告げる。
「……主の『番』に仕える者として、最低限の胆力はあるようですね。陛下、回収をいたしますか?」
「ああ。連れて行くぞ」
バルトロメウスは「効率を優先します」とだけ言い捨て、抵抗する間もなくアンナを小脇に抱えた。
「えっ、ちょっと!? 離してください、私、重いですよ!?」
「数値上、羽毛と大差ありません。静かに」
絶望に打ちひしがれ、雪原に放り出された家族たちを背に、黒い光が四人を包み込む。
消える間際、リリアは見た。何もない雪の中に立ち尽くし、自分たちの傲慢さが招いた結果に呆然とする父たちの姿を。
───地獄のような日々は、文字通り「秒」で、跡形もなく消え去った。
「帰ろう、俺たちの城へ」
魔王の腕の温かさに身を委ね、リリアは静かに目を閉じた。過剰すぎるほどの幸福が、今、幕を開ける。




