第9話 護衛記録、全四十七日分。ご査収ください
「——王前評定を開廷する」
国王アルベルト三世の御前。大評定室の扉が開かれた時、私の心臓は喉のあたりまで上がっていた。
広い。天井が高い。磨き上げられた大理石の床に、列席者の靴音が反響している。長机が扇形に並び、高位貴族、法務官、騎士団の幹部が着席している。正面の玉座に国王陛下。その右手にヴィクトル殿下。左手に──リゼルテ殿下。
そしてオルヴァス。元大神官の法衣は、今日も白と金。慈悲深い笑顔。
(……あの顔、召喚初日と同じだ。「形式的なものですので」って契約を流そうとした時の顔)
私は証人席に座った。膝の上に、羊皮紙の束。安宿で三日間かけて最終整理した資料。統計データ。改竄の証拠。前任聖女の記録。全部ある。
隣の席は空席。──いや、後方の壁際に、見慣れた長身が立っていた。
レオン。
黒い騎士服。腕組み。壁に背を預けて。いつもの定位置──じゃない。今日は護衛ではない。護衛任務は解かれている。なのにここにいる。
目が合った。
レオンの表情は読めない。いつもの彫像の顔。でも──一つだけ違う。顎の線が、いつもより柔らかい。奥歯を噛みしめていない。何か、覚悟を決めた人間の顔だった。
……何の覚悟だろう。
考える暇はなかった。評定が始まった。
◇
「聖女ミコトの罷免は正当な手続きに基づくものであり——」
オルヴァスが口火を切った。朗々とした声。二十年間神殿を率いてきた大神官の話術。列席者の何人かが頷いている。
「聖女は定時退社と称して職務を放棄し、民の治療を拒んだ。数字を操作して成果を装い、神殿の伝統ある運営方針を否定した。これは怠慢であり——」
「では」
ヴィクトル殿下が、静かに遮った。
「現在の神殿の状況を、報告していただけますか」
オルヴァスの声が一瞬止まった。
ヴィクトル殿下が侍従に目配せする。侍従が一枚の報告書を読み上げた。
「聖女罷免後、二週間の神殿運営状況。患者の平均待ち時間──罷免前の四倍。治癒成功率──二割低下。神官見習いの病欠──三名。市民からの苦情──百二十七件。前月比で八倍」
数字が、大評定室に響いた。
列席者の空気が変わる。さっきまで頷いていた貴族たちが、オルヴァスを見る目が──違う。
「大神官。聖女の『怠慢』を排除した結果が、これですか」
ヴィクトル殿下の声に温度はない。事実を確認しているだけ。それが余計に重い。
オルヴァスの笑顔が、薄くなった。
「……一時的な混乱は想定内です。聖女が不当な制度を導入したため、元に戻す過程で——」
「騎士団長」
ヴィクトル殿下がレオンを見た。
「報告を」
レオンが壁から離れた。一歩前に出る。百九十センチの長身が、評定室の中央に立つ。
「騎士団長レオン・ヴァルトシュタイン。聖女の健康状態に関する公的報告を行います」
事務的な声。いつもの抑揚のない低音。
レオンの手に、革装の束がある。厚い。百ページ以上ある。
「聖女ミコトの護衛記録。着任初日より罷免日まで、全四十七日分。ご査収ください」
四十七日分。
場が静まった。
レオンが記録を開く。
「着任初日。聖女の健康状態は危険域。顔色は蒼白、四肢に震えあり。召喚直後の消耗に加え、神殿の業務量が著しく過剰。前任聖女と同様の事態が懸念される」
「——前任聖女と同様、とは?」
法務官が口を挟んだ。
「大神官の報告では、前任聖女サラの離任理由は『突然の病』でしたが」
レオンがオルヴァスを見た。
「護衛として着任時の申し送りでは、前任聖女は過労による意識喪失で倒壊したと聞いております」
オルヴァスの目が、細くなった。
沈黙。
「続けます」
レオンが記録を捲る。
「七日目。トリアージ制度導入後、聖女の消耗度は四割軽減。治療の質は向上」
「十四日目。シフト制が安定。聖女の初めての休日。健康状態は回復傾向」
「二十八日目。茶会への出席。護衛として同行。聖女は改革前後の統計データを提示し、糾弾に対して数値で反論。健康状態に影響なし」
淡々と。数字と事実だけ。四十七日分の記録が、評定室に積み重なっていく。
レオンの声は変わらない。感情がない。──ように聞こえる。でも、読み上げている内容の中に、私は知らないものがあった。
「二十一日目。非番。聖女の休日に同行し王都を巡回」
……巡回。パン屋巡りのことだ。
「三十五日目。聖女が廊下で倒壊寸前。即座に確保。体重が著しく軽い」
あの日のことだ。レオンに抱き止められた日。スープを持ってきてくれた日。
「四十七日目。護衛任務終了。保温瓶を配置。本日の聖女の体調——確認できず」
保温瓶。
あの、銀色の。
(——全部、記録してたんだ。この人)
レオンが記録を閉じた。
「以上が、護衛期間中の聖女の健康状態に関する報告です。着任時に危険域であった健康状態は、改革の実施に伴い改善傾向を示しました。罷免は、聖女の健康と国益の双方に対して不利益をもたらしたと判断します」
事務的。最後まで事務的。
でも──四十七日分の記録を、この人は書き続けていた。毎日。護衛任務が終わった後も。
私は立ち上がった。
「ミコト殿、発言の許可を求めますか」
ヴィクトル殿下の声。
「はい」
膝の上の羊皮紙を取る。手は、もう震えていなかった。
◇
「お手元に資料をお配りします」
私は用意していた写しを列席者に配った。フィーネが事前に王宮に届けてくれた分だ。
「まず、着任前後の治療実績の比較です」
数字を読み上げる。治癒成功率。待ち時間。重症患者の生存率。薬草処方件数。
茶会の時と同じデータ。でも今日は、退けられない。この場には国王がいて、法務官がいて、全員が同じ資料を見ている。
「次に、過去十年分の治療記録と予算申請書の照合結果です」
ここからが本番だ。
「治療件数が異常に増加した月があります。一日六十件。前任聖女一人では物理的に不可能な数字です。にもかかわらず、件数に連動して王宮への予算申請額が増額されています」
「一方、薬草の消費量は横ばいです。回復魔法のみで六十件を処理した計算になりますが、これは術者の消耗限界を大幅に超えています」
「つまり——実在しない治療件数で、予算が水増しされていた可能性があります」
場が凍った。
「増額分の予算の使途は、帳簿のどこにも記載されていません」
オルヴァスの顔から、笑顔が消えていた。
「さらに、前任聖女サラの業務記録です」
三ヶ月の空白。異常な治療件数の後の、まるごと消えた期間。
「前任聖女は、過剰な業務量の末に倒壊しています。この事実は『突然の病』として報告されましたが、業務記録の件数推移と照合すると、過労以外の説明がつきません」
法務官がオルヴァスを見た。
「大神官。前任聖女の件について、報告と記録に矛盾があります。説明を求めます」
「……それは、当時の記録に不備があっただけで——」
「不備ではありません」
私は口を挟んだ。
「記録は存在します。書庫の奥に残っていました。破棄されず——ただ、誰の目にも触れない場所に」
(この人は記録を捨てなかった。「誰も読まない」と侮ったから。——それが、今ここで全部出てきている)
「最後に」
私は召喚契約書の写しを掲げた。魔法の刻印付き。
「召喚契約第三条。『聖女の健康管理は神殿側の義務とする』。この条項に違反した状態での罷免は、契約の趣旨に反します」
法務官が契約書を受け取り、刻印を確認した。
「……刻印は正規のもの。契約は有効です」
リゼルテ殿下が口を開いた。
「私は大神官の報告を信頼して監督権を行使しただけです。大神官の報告に虚偽があったとすれば、それは——」
「監督権者としての確認義務はどうお考えか」
ヴィクトル殿下が、妹に向かって言った。
リゼルテ殿下の扇子が止まった。微笑みが——剥がれた。
ここで、フィーネたち神官見習い三名が証人として呼ばれた。シフト制導入前の労働環境。前任聖女が倒れた日のこと。改革による変化。宣誓魔法の下で、彼女たちは淡々と証言した。
フィーネが壇上で、まっすぐ前を向いている。目の下の隈は消えていない。でも、声は震えていなかった。
(……あの子、強くなった)
◇
国王陛下が、ゆっくりと口を開いた。
「大神官オルヴァス。治療記録の水増し、予算の不正使途、前任聖女の健康被害の隠蔽。いずれも弁明の余地がないと判断する。大神官職を剥奪し、資金流用について詳細な調査を命じる」
オルヴァスの顔が白くなった。二十年。二十年かけて築いた地位が、一つの裁定で終わった。
「第二王女リゼルテ。神殿の監督権を停止する。監督権者としての確認義務を怠った責任は重い」
リゼルテ殿下が唇を噛んだ。扇子を握る指が白い。
「聖女ミコトの罷免を取り消し、聖女の地位を復帰させる。併せて、聖女が実施した業務改革を神殿の正式な運営方針として認定する」
裁定が下った。
大評定室が、ざわめいた。列席者が顔を見合わせている。法務官が書類を整理している。オルヴァスは椅子に座ったまま動かない。リゼルテ殿下は扇子で顔を隠している。
私は、立っていた。
何か叫びたいわけでもない。泣きたいわけでもない。ただ——やっと、数字が届いた。前世では届かなかった声が、この世界では届いた。
「ミコト殿。何か申し述べることは」
ヴィクトル殿下の声。
「はい。——では、明日から神殿の再建に取りかかります」
一拍。
「本日は定時ですので、続きは明日で」
大評定室が、一瞬、静まった。
それから——誰かが噴き出した。法務官だったかもしれない。列席者の何人かが口元を押さえている。
ヴィクトル殿下の唇の端が上がった。
後方の壁際で、レオンが——何か言った。声は聞こえなかった。でも、口の動きが読めた。
「——聞いたか。明日だそうだ」
誰に向かって言ったのかはわからない。隣にいたハインツかもしれない。独り言かもしれない。
でもその口元が、わずかに緩んでいたことだけは──見えた。
◇
評定が閉じた後、控室で待っていたら、使者が革装の束を持ってきた。
「騎士団長より。お目通しいただきたいと」
四十七日分の護衛記録。
評定で読み上げられた、あの記録の原本だ。
安宿に持ち帰った。
部屋の蝋燭を灯して、ベッドの上で開いた。
一ページ目。着任初日。
『聖女の健康状態は危険域。顔色は蒼白。召喚直後の消耗が著しい。水筒(白湯)を提供。摂取を確認。——温度に注意。冷水は体に負担がかかる』
(……温度に注意って、護衛記録に書くことじゃないでしょ)
ページを捲る。
七日目。
『トリアージ制度導入。聖女の判断は合理的。この聖女は、今までと違う』
十四日目。
『聖女が退勤後、治療院の残務を確認。翌日分の薬草箱を所定位置に配置。処方用紙を整頓。——これは護衛の職務ではないが、記録として残す』
(残務を片付けてたの、やっぱりレオンさんだったんだ……)
二十一日目。
『非番。聖女の休日に同行。王都のパン屋を三軒巡回。聖女がくるみパンを食べた際の表情が——』
インクが滲んでいる。書き直した跡がある。
『——良好であった。健康状態に問題なし』
(……書き直してる。「表情が」の後に何を書こうとしたんだろう)
三十五日目。
『聖女が廊下で倒壊寸前。即座に確保。体重が著しく軽い。食事と休息の確保が急務。温かいスープを手配。就寝を確認後、書庫にて翌日分の資料を整理』
四十二日目。
『聖女、罷免の通知を受ける。笑い方が不自然。前日との比較において、目の周囲の筋肉の動きが異なる。作り笑いと推察する』
目の周囲の筋肉の動き。
そんなところまで見ていたのか、この人は。
四十七日目。最終ページ。
『保温瓶を居室前に配置。薬草茶(はちみつ入り、苦味少)。フィーネに確認済み。本日の聖女の体調——確認できず。護衛任務終了により接触手段なし』
そして——最後の一行。
『笑顔が増えた。以上』
笑顔が増えた。
以上。
業務記録の最後に、そんなことを書く人がどこにいるんだろう。四十七日間、毎日毎日、私の健康状態を記録して、水筒の温度を気にして、残務を片付けて、パン屋の道順を調べて、倒れた時にスープを持ってきて、罷免された日に薬草茶を置いて——
最後に書いたのが、「笑顔が増えた」。
これ、護衛記録じゃない。
護衛記録なんかじゃ——
視界がにじんだ。
羊皮紙に、水滴が落ちた。一つ。二つ。
(……だめだ。記録が濡れる。公文書なのに。インクが滲む——)
拭こうとして、余計に広がった。
笑った。泣きながら笑った。何をやっているんだろう、私は。前世では退職後に泣いたのは一度もなかったのに。コンビニのサンドイッチを食べながら、一人で平気な顔をしていたのに。
記録を胸に抱えた。革の装丁が硬い。角が鎖骨に当たって少し痛い。でも手放せなかった。
四十七日分。
四十七日間、この人はずっと——
窓の外が暗くなっていく。安宿の薄い壁。遠くから酔っ払いの歌声。
明日から、神殿の再建が始まる。レオンも、きっと神殿にいる。
明日、何を言えばいいんだろう。
「ありがとうございます」じゃ、足りない。「任務だったんですか」と聞くのも違う。答えは、もう手の中にある。四十七ページ分の——答えが。
蝋燭の灯りが揺れた。保温瓶が机の上で、小さく光っている。




