第8話 仕組みは嘘をつかない
神殿が崩壊しているらしい、と安宿の噂で知った。
罷免から二週間。王都の外れにある安宿の一室で、私は毎朝、階下の食堂で耳に入る会話を聞いている。
「神殿の待ち時間、また長くなったらしいぜ」
「前は半日待ちで済んだのに、今は朝から並んで日暮れまでだと」
「聖女様が辞めさせられたんだろ? あの後から急にだよ」
安宿の食堂で、商人風の男たちがパンをちぎりながら話している。私は隅のテーブルで薬草茶を飲みながら、聞こえないふりをした。
……聞こえてるけど。
部屋に戻る。狭い。ベッドと机と椅子が一つずつ。窓からは路地裏が見える。洗濯物が風に揺れていて、生活の匂いがする。
机の上に、記録の束。
治療実績の統計。改竄が疑われる帳簿の抜粋。前任聖女サラの業務記録。予算申請書との矛盾点の一覧。フィーネが持っているバックアップと合わせて、二重に保存してある。
あと、銀色の保温瓶。
中身はもう空だ。あの朝飲んだ薬草茶の味が、まだ舌の奥に残っている気がする。——気がするだけだ。二週間も前の味なんて、覚えているわけがない。
(……捨てればいいのに、捨てられない。荷物が少ないのに、これだけ場所を取ってる)
記録に目を落とす。
数字は揃っている。矛盾も整理した。改竄の箇所にはマーカーを引いて、前任聖女の記録との対応も付けてある。前世の進行管理で叩き込まれた「誰が見てもわかる資料」の作り方。
でも——この資料を持っていくべき場所が、ない。
王宮に直訴する手段を、私は持っていない。爵位もない。後ろ盾もない。「元聖女」の肩書きは、今や「罷免された聖女」だ。
(前世の退職後と同じだ。不正に気づいていても、辞めた人間の言葉なんて誰も聞かない)
椅子の背にもたれて、天井を見上げた。
染みがある。雨漏りの跡だろう。形が日本地図に似ている。——いや似てない。何を見てるんだ私は。
仕組みは作った。
シフト制。トリアージ。予約制度。マニュアルも引き継ぎ書も、全部残してきた。私がいなくても回るように設計した。
……はず、だった。
でも噂を聞く限り、回っていない。
仕組みは「運用する人」がいなければ動かない。マニュアルがあっても、それを使おうとしなければ紙束と同じだ。オルヴァス猊下が——いや、今はもう猊下と呼ぶ立場でもないか。あの人が、意図的に元に戻したのだろう。
「ミコトの改革=自分の二十年の否定」。だから壊した。
(わかる。前世の部長もそうだった。新人が業務フローを改善したら、「俺のやり方を否定するのか」って怒って全部戻した。あの部署、私が辞めた後どうなったっけ……ああ、過労で三人倒れたって同期に聞いたな)
同じだ。
同じことが、異世界でも起きている。
◇
ノックの音がした。
安宿のドアは薄い。向こう側の気配がわかる。小柄な人。靴音が軽い。
「……聖女様?」
フィーネの声だった。
扉を開けると、フィーネが立っていた。三つ編みの栗色の髪。目の下に隈がある。——ひどい隈だ。着任したばかりの頃の、シフト制導入前のフィーネと同じ顔色。
「フィーネさん……どうしたの、こんなところまで」
「お休みをいただいて……あ、お休みって言っても、シフト制がなくなったので勝手に抜けてきたんですけど」
部屋に入れる。椅子は一つしかないので、フィーネに座らせて、私はベッドの端に腰を下ろした。
「聖女様、神殿が——めちゃくちゃなんです」
フィーネの声が震えている。
「トリアージもシフト制も全部なくなって、前のやり方に戻されました。でも、一度楽になったのを知ってしまったら……みんな、もう無理なんです。見習いが二人、体を壊して休んでいます。患者さんの列は毎日門の外まで伸びていて、市民の方から苦情が……」
「……そう」
わかっていた。噂で聞いていた通りだ。
「みんな、聖女様に戻ってきてほしいって言ってます。お願いです、聖女様——」
「フィーネさん」
名前を呼んだら、フィーネが黙った。目が赤い。泣きそうな顔。十七歳の子に、こんな顔をさせている。
「私が戻っても、根本は変わらない」
「え……」
「仕組みはある。マニュアルも引き継ぎ書も全部残してきた。仕組みが動かないのは、仕組みが壊れたからじゃなくて——壊した人がいるから」
フィーネが唇を噛んだ。
「変わるべきは仕組みじゃない。仕組みを壊す側が変わらなければ、何度作り直しても同じことの繰り返しになる」
前世で言えなかった言葉だ。前世では、壊されるたびに作り直して、作り直すたびに消耗して、最後に壊れたのは仕組みじゃなくて私自身だった。
「でも……でも、聖女様……」
「大丈夫。大丈夫だから」
また言ってしまった。「大丈夫」。前世から持ち越した口癖。——全然大丈夫じゃないくせに。
「あの、聖女様」
フィーネが何か言いかけた。口を開いて、一瞬迷うような顔をして——閉じた。
「……いえ、なんでもないです」
(今、何を言おうとした?)
フィーネの目が泳いでいた。何か知っている顔だ。でも言えないでいる。——この子がこういう顔をする時は、誰かに止められている時だ。
「フィーネさん、体に気をつけてね。あなたまで倒れたら、私が怒るから」
「……はい」
フィーネが鼻をすすって、笑った。ぎこちないけど、笑顔だった。
「聖女様も。ちゃんと食べてくださいね」
「食べてるよ。安宿のパン、意外と悪くないの」
嘘だ。不味い。あの三軒目のパン屋のはちみつパンの百分の一も美味しくない。
フィーネを見送って、扉を閉めた。
部屋に一人。
窓の外で、洗濯物がはためいている。遠くから市場の声が聞こえる。
(……結局、仕事の関係だったんだ)
ふいに、そう思った。
神殿の人たち。フィーネ。見習いの神官たち。——そしてレオン。
仕事の関係だから、一緒にいた。聖女だったから、護衛がついた。罷免されたら、全部なくなった。
前世でもそうだった。会社を辞めたら、毎日顔を合わせていた同僚からの連絡はぱたりと途絶えた。「また飲みに行こうね」と言ったきり、誰からも連絡は来なかった。
仕事がなくなれば、関係もなくなる。
それが普通だ。それが当たり前だ。——わかっている。
わかっているのに、銀色の保温瓶を捨てられない自分が、少し腹立たしかった。
◇
同じ頃。騎士団長の執務室で、レオン・ヴァルトシュタインは机に向かっていた。
開いているのは、報告書の束だ。
「聖女護衛任務記録」。着任初日から罷免の日まで、四十七日分。
レオンの几帳面な筆跡で、一日一ページ。聖女の健康状態、行動記録、特記事項が記されている。騎士団長の公的報告として、王宮にも写しを提出する正式な業務文書だ。
七日目の記録。
『聖女の顔色は改善傾向。トリアージ導入により消耗度が軽減されたものと推察する』
十五日目の記録。
『聖女の食事量が少ない。体重の減少が懸念される。護衛として改善を提言する必要あり』
——ここまでは業務報告だ。問題はない。
二十一日目。
『非番。聖女の休日に同行。王都のパン屋を巡回。聖女がくるみパンを食べた際の表情が——』
ペンが止まった跡がある。インクが一箇所滲んでいる。
書き直された文が続く。
『——良好であった。健康状態に問題なし』
三十五日目。
『聖女が治療院廊下で倒れかけた。即座に確保。体重が著しく軽い。食事と休息の確保が急務。温かいスープを手配し摂取を確認。就寝を確認後、書庫にて翌日分の調査資料を整理』
四十二日目。
『聖女、罷免の通知を受ける。表情に動揺は見られなかったが、笑い方が——不自然であった。前日との比較において、目の周囲の筋肉の動きが異なる。作り笑いと推察する。護衛任務、本日をもって解除』
最終日、四十七日目。
『保温瓶を聖女の居室前に配置。薬草茶(はちみつ入り、苦味少)。聖女の好みの配合。フィーネに確認済み。本日の聖女の体調——確認できず。護衛任務終了により接触手段なし』
そして、最後の一行。
『笑顔が増えた。以上』
レオンはそのページを見つめていた。自分が書いた文字を。インクの滲みを。書き直した跡を。
これは——護衛記録ではない。
護衛記録に「くるみパンを食べた際の表情」を書く騎士がどこにいる。「笑い方が不自然」と記録する護衛がどこにいる。「笑顔が増えた」で報告書を締める軍人がどこにいる。
「……」
レオンが記録を閉じた。
開いた。
また閉じた。
「——で、どうするんですか、団長」
声は扉の横から。ハインツが壁にもたれて腕を組んでいた。いつからいたのか。
「……覗き見か」
「報告書を開いたり閉じたりする上官を見守るのも副団長の仕事です」
「……」
「団長。率直に聞きます。あの聖女のこと、守りたかったんですか」
沈黙。
レオンの右手が、記録の表紙の上で止まっている。指が、無意識にインクの滲みをなぞっていた。
「……俺は」
声が掠れた。咳払いを一つ。
「俺は、あいつを——」
言葉が途切れた。レオンの喉仏が一度上下する。
ハインツが黙って待っている。茶化さない。この男は、ここぞという時には黙れる人間だ。
「……守りたかった。任務ではなく」
短い。それだけ。
ハインツが息を吐いた。呆れたような、安堵したような。
「それで。守りたかった人を、このまま安宿に放っておくんですか」
「王命には——」
「逆らえない。知ってます。でも団長、あなたには一つ、王命に逆らわずにできることがあるでしょう」
レオンが顔を上げた。
「騎士団長には、聖女の健康状態に関する公的報告権がある」
ハインツの言葉ではない。レオン自身が言った。
公的報告権。聖女の護衛を任された騎士団長は、聖女の健康と安全に関して王宮に直接報告する義務と権限を持つ。護衛任務は解除されたが——四十七日分の記録は、任務期間中に作成された公的文書だ。報告する権利は残っている。
「この記録を、王前評定に提出する」
「それ、越権行為と見なされる可能性もありますよ。護衛を解かれた後に出すんですから」
「知っている」
「最悪、騎士団長の職を失う」
「知っている」
ハインツが肩をすくめた。
「……はいはい。知ってるならいいです。では副団長として、留守中の指揮は引き受けましょう」
レオンが立ち上がった。記録の束を手に取る。四十七日分。百ページ以上。
「ハインツ」
「何ですか」
「……すまない」
「謝らなくていいですよ。——偶然ですから」
その言葉に、レオンの口元がほんの微かに——動いた。笑った、のかもしれない。ハインツにしかわからない程度に。
◇
安宿の窓が赤く染まった頃、ノックの音がした。
今度はフィーネではない。固い靴音。正確なリズム。軍人か、宮廷の使者だ。
扉を開けると、王宮の紋章が入った外套を着た男が立っていた。
「聖女ミコト殿でいらっしゃいますか」
「……元聖女、ですけど」
「ヴィクトル殿下よりの書状をお届けに参りました」
差し出された封書。王宮の蝋印。開封する。
羊皮紙に、端正な筆跡。
『聖女ミコト殿
神殿の運営状況に関し、複数の報告に重大な矛盾が認められました。
つきましては、近日開催の王前評定にて、聖女としての所見を陳述いただきたく、ここに出席を要請いたします。
なお、本評定は国王陛下の御前にて行われるものであり、発言の機会は全出席者に等しく保障されます。
第一王子ヴィクトル』
手が震えた。
(王前評定。——公開の場。国王の御前。発言の機会が保障される)
これまで封じられていたものが、全部ひっくり返る場所だ。小評定室の出来レースとは違う。リゼルテ殿下が場を支配できない、正式な審議の場。
「複数の報告に重大な矛盾」——誰が報告したのだろう。ヴィクトル殿下が独自に調査したのか。
使者が去った後、私は椅子に座ったまま、書状を膝の上に置いた。
手が、まだ震えている。
鞄の中の記録を見た。統計データ。改竄の証拠。前任聖女の記録。全部揃っている。
銀色の保温瓶の隣に、記録の束がある。
(……まだ終わってなかった)
前世では、辞めたら終わりだった。不正を知っていても、辞めた人間に発言の場はなかった。
この世界は——違った。場が、与えられた。
「数字は嘘をつかない」
誰もいない部屋で、呟いた。
窓の外が暗くなっていく。安宿の薄い壁の向こうから、酔っ払いの笑い声が聞こえる。
明日から準備をしよう。資料を整える。数字を揃える。前世のクライアントプレゼンと同じだ。——いや、あの時より大事な、たった一回のプレゼン。
机の上で、保温瓶が蝋燭の灯りを反射した。銀色の光が、小さく揺れていた。




