第7話 体に気をつけろ
「——本日付をもって、聖女ミコトを罷免する」
評定官の声が、小評定室の石壁に反響した。
高い天井。磨かれた長机。居並ぶ貴族と高位神官たち。——その全員が、私ではなくオルヴァス猊下の方を向いている。
罷免。
わかっていた。フィーネから聞いた時点で、この結末は見えていた。でも、いざ言葉として叩きつけられると、胃の底が冷たくなる。
「異議がございます」
私は立ち上がった。声は震えなかった。前世のクライアントミーティングで鍛えた声帯は、こういう時に役に立つ。
「改革前後の治療実績をご覧いただければ——」
「聖女の統計データは、聖女自身が作成したもの。客観性に欠けます」
遮ったのはオルヴァスではなかった。長机の奥。リゼルテ殿下の隣に座った法務官が、事務的な口調で切り捨てた。
(……仕込んである。この法務官、リゼルテ殿下の息がかかっている)
「神殿の公式記録と照合していただければ、整合性は——」
「神殿の公式記録は大神官の管轄です。大神官猊下ご自身が、聖女の報告と実態に乖離があると上奏されている。であれば、聖女作成の資料のみでは証拠能力を認められません」
詰んでいる。
最初から詰んでいた。審議の形をとった出来レースだ。証拠を出しても「聖女が作ったもの」で退けられ、神殿の記録は「大神官の管轄」だからオルヴァスが正しいことになる。
(前世のパワハラ上司と同じ構造だ。判定する側が加害者の味方なら、何を言っても無駄)
リゼルテ殿下をちらりと見た。扇子で口元を隠して、微笑んでいる。あの目は、茶会の時と同じだ。見通しているのに、自分の手は汚さない。
「——聖女ミコト。弁明は以上ですか」
評定官の声。
周囲を見回した。列席者の顔。誰一人、私と目を合わせない。
壁際に、レオンが立っていた。護衛の定位置。表情は——いつもの彫像。でも、顎の線が硬い。奥歯を噛んでいるのが、ここからでもわかった。
レオンと目が合った。
一瞬だけ。
レオンの切れ長の目に何かが揺れた——ように見えたけれど、すぐに正面に戻ってしまった。
(……そうだよね。王命には逆らえない。騎士だから)
「以上です」
私は頭を下げた。
◇
廊下に出ると、春の風が吹き抜けていた。
壁のステンドグラスから差す光が、石の床に色を落としている。きれいだな、と思った。召喚されてから六週間、この廊下を何度歩いただろう。朝と夕方、治療院と宿舎を往復して。
「ミコト」
足を止めた。
レオンが後ろに立っていた。小評定室から追いかけてきたのか。——いや、護衛だからついてきただけだ。
「護衛任務は、本日をもって解除となる」
事務的な声。事務的な報告。
……知ってる。罷免されたら聖女じゃない。聖女じゃなければ護衛はつかない。当然の帰結だ。
「王命には逆らえない」
レオンの声が、低い。いつもより低い。——いつもこのくらいだっけ。よくわからない。
「わかっています」
笑った。笑えた、と思う。ちゃんと笑えているかは自信がない。
「お仕事ですもんね」
その言葉が口から出た瞬間、胸の奥で何かがきしんだ。
(——前世でも同じことを言った。退職が決まった時、「仕方ないですよね、お仕事ですから」って上司に笑って言った。あの時も、こんな顔だった。こんな笑い方だった)
レオンが黙っている。
いつもなら「そうだ」と答える人が、黙っている。壁に反射した光が、レオンの横顔に色を落としている。表情は——読めない。でも、唇が微かに動いた。何か言いかけて、飲み込んだ。
「……体に気をつけろ」
それだけだった。
レオンが踵を返す。黒い騎士服の背中。広い肩。長い足。——この背中を、毎日見ていたんだな。退勤の道も、パン屋の前も、茶会の会場でも。いつも半歩前にあったこの背中が、遠ざかっていく。
「——レオンさん」
呼び止めた。なぜかは、自分でもわからない。
レオンが振り返った。
「……護衛、ありがとうございました」
目が合った。
レオンの切れ長の目が、ほんの一瞬だけ——揺れた。何かを堪えるような、飲み込むような。
「……任務だ」
声が、掠れていた。
いつもの「任務だ」と同じ三文字なのに、温度が違う。温度が違う、と思うのは私の気のせいで、たぶん、気のせいだ。
レオンが去っていった。
廊下に一人。風が吹いている。さっきまできれいだと思っていたステンドグラスの光が、やけに目に沁みた。
◇
その夜。
宿舎の部屋で、私は荷物をまとめていた。
荷物は少ない。着替えが二着。フィーネにもらった薬草茶の缶。書庫から写しを取った記録の束。召喚契約書の原本。——以上。
(荷物が少ないのは、社畜の特技だ。前世の引っ越しも段ボール三つで済んだっけ)
記録の束を確認する。治療実績の統計。改竄が疑われる過去の帳簿の抜粋。前任聖女サラの業務記録。予算申請書との矛盾点のまとめ。——全部ある。六話の末にフィーネに渡したバックアップも含めれば、二重に保存してある。
持ち出しの根拠は、召喚契約の第四条。業務改善のために収集した情報は聖女の業務記録として保管権がある。罷免されても、契約解除の手続きが完了するまでは契約は有効だ。
(この条項も入れておいてよかった。……召喚初日の自分、ありがとう)
鞄に記録を詰めて、紐を結ぶ。
生活保障も契約に含まれている。罷免されても、契約解除までの最低限の資金は出る。安宿くらいには泊まれるはずだ。
……大丈夫。仕組みは作った。シフト制もトリアージも予約制度も、全部マニュアルにして引き継いである。私がいなくても回る。
(私がいなくても回る仕組みを作った。それが進行管理の仕事だ。——前世では、「自分がいなくても回る」なんて言えなかった。自分が抜けたら全部止まる。それが怖くて、逃げられなくて、死んだ)
今回は違う。仕組みはある。
だから——
ノックの音はなかった。
朝、扉を開けた時に気づいた。
扉の前の石の床に、銀色の保温瓶が置いてあった。
使い込まれた銀色。——見覚えがある。召喚初日に差し出された、あの水筒と同じ色だ。
蓋を開ける。
薬草茶の匂い。温かい。
一口飲んだ。
……私の好きな配合だ。苦味の少ない、はちみつ入りの。フィーネに教えた好みそのままの味。
(誰が——)
名前は書いていない。手紙もない。ただ保温瓶が置いてあるだけ。
でも。
こんな朝早くに。この配合を知っている人。銀色の水筒を持っている人。
(……任務、じゃないよね。もう護衛じゃないのに)
いや。きっと、最後の引き継ぎみたいなものだ。護衛対象の体調管理。業務の一環。
そういうことにしておく。そうしないと——泣きそうだから。
保温瓶を鞄に入れた。
◇
神殿の門を出た。
朝の光が石畳を白く照らしている。空気が澄んでいて、遠くからパン屋の匂いがする。
振り返らなかった。
振り返ったら、たぶん足が止まる。六週間過ごした場所。仕組みを作った場所。レオンが門前に仁王立ちしていた場所。
「——私がいなくても回る仕組みを作りましたから」
誰に言うでもなく、呟いた。荷物は軽い。鞄一つと、銀色の保温瓶。
前世の退職日も、こんな天気だった気がする。
あの時は、段ボール箱を抱えてオフィスを出た。誰も見送りに来なかった。エレベーターのボタンを押して、一階まで降りて、自動ドアが開いて——それで、終わり。
今もそうだ。
門を出て。石畳を歩いて。角を曲がれば、神殿は見えなくなる。
——でも、今回は違うことが一つだけある。
鞄の中に、数字がある。
改竄の証拠。矛盾する帳簿。前任聖女の記録。全部、持ち出した。
前世では、不正経理に気づいても何もできなかった。証拠を持ち出す発想もなかった。上司に「余計なことをするな」と言われて、黙って退職届を書いた。
今回は——まだ、手の中にカードがある。
公にする手段は、まだない。でも、カードを持っている限り、ゲームは終わっていない。
(……定時で帰るって決めた時から、こうなる可能性は考えてた。だから記録を取った。だから二重に保存した。だから契約書に条項を入れた。全部、保険だ)
前世で学んだ教訓。最悪を想定して、備えておくこと。それだけは、過労死しても忘れなかった。
鞄の紐を握り直す。
安宿を探そう。それから——考える。
◇
同じ朝。
王宮の書斎で、第一王子ヴィクトルは机に広げた書類を読んでいた。
騎士団長レオン・ヴァルトシュタインからの定期報告書。聖女の護衛任務に関する業務報告として、王太子の執務室にも写しが届くものだ。
普段なら目を通して終わりの書類。だが——今朝、別の報告が重なった。
「殿下。神殿の治療院で、患者の待ち時間が先週から倍増しているとの市民からの苦情が急増しております」
侍従の報告を聞きながら、ヴィクトルはレオンの報告書を捲った。
一ヶ月前の報告。——「聖女ミコトの改革により、治療院の運営効率が顕著に向上。待ち時間は半減、重症者の治癒成功率は九割を超える」
二週間前の報告。——「聖女の健康状態は良好。改革は定着し、シフト制・予約制度ともに安定稼働」
そして、昨日の報告。——「聖女ミコト、罷免。護衛任務を解除」
ヴィクトルは報告書を閉じなかった。
最初のページに戻る。着任直後の報告。「聖女の健康状態は危険域。神殿の労働環境は過酷であり、前任聖女と同様の事態が懸念される」
——前任聖女と同様。
ヴィクトルの目が細くなった。
「……前任聖女サラの件について、大神官からの報告はどうなっていた」
「突然の病により職務遂行が不能に、との報告のみでございます」
「騎士団長の報告書には『過労が懸念される』と書いてある。大神官の報告とは異なるな」
侍従が黙った。
ヴィクトルは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
改革で数字が改善した聖女を、罷免した。罷免した途端に、神殿の業務が悪化している。大神官の報告と騎士団長の報告が食い違っている。そして——妹のリゼルテが、この罷免を推進した。
「……少し、調べさせろ」
侍従が一礼して下がった。
書斎に一人。ヴィクトルは報告書の表紙に目を落とした。
騎士団長の几帳面な筆跡が、朝の光に照らされていた。




