第6話 ……軽すぎる
数字の海に潜り続けると、前世の終電の匂いがする。
茶会から三日。私は治療院の業務と並行して、書庫に通い詰めていた。
過去十年分の治療記録。年度ごとの患者数。王宮への予算申請書の写し。薬草の購入帳簿。——全部引っ張り出して、数字を突き合わせている。
茶会の帰りに気づいた矛盾は、調べるほど大きくなっていった。
治療件数が異常に多い月がある。なのに薬草の消費は増えていない。回復魔法だけで対応した計算になるが、一人の聖女でこなせる量じゃない。水増し。それも、王宮への予算報告と連動している。
(件数が増える→予算が増える→でも実際の治療は増えていない→差額はどこに消えた?)
流用だ。——たぶん。いや、「たぶん」じゃない。数字がそう言っている。
問題は、証拠の精度だった。帳簿の原本と予算申請書を照合すれば決定的になる。でも原本は書庫の奥——
「聖女様」
書庫の入口に、見慣れない神官が立っていた。恰幅のいい中年の男。オルヴァスの側近だ。
「猊下よりお達しです。本日より、書庫の記録類は機密扱いとし、閲覧には大神官の許可が必要となります」
……来た。
(動きが早い。茶会でデータを出したから、私が過去の記録を調べていることに気づいたな)
制限。遮断。証拠へのアクセスを潰す。——前世の広告代理店で、不正経理がバレそうになった時に経理部長がやったのと同じ手だ。共有フォルダのアクセス権限を一夜で変えた。
あの時は、手が出せなかった。
今は——。
「承知しました。では、こちらをご確認いただけますか」
私は胸元から、折り畳んだ羊皮紙を取り出した。
召喚契約書の写し。魔法の刻印付き。初日に条項を追加してもらった、あの契約書だ。
「第四条の三。『聖女は業務改善のために必要な情報へのアクセス権を有する』。……この条項に基づき、書庫の記録へのアクセスを継続させていただきます」
神官の顔が固まった。
「し、しかし猊下のお達しが——」
「召喚契約は王の名において発効する法的文書です。大神官のお達しより上位にあたるかと存じますが」
沈黙。
神官が口を開いて、閉じて、もう一度開いて——「……猊下にお伝えいたします」と言って去っていった。
(この条項、入れておいてよかった……!)
召喚初日の自分に感謝する。あの時はただの「保険」のつもりだった。まさかこんなに早く使うことになるとは。
書庫の奥に進む。帳簿の山に手を伸ばす。
——ここからが本番だ。
◇
それから三日間、私は治療院と書庫を往復した。
朝から夕方まで治療。定時で退勤して——そのまま書庫に潜る。数字を追う。帳簿をめくる。蝋燭の灯りで目が霞む。
いけないとわかっている。
定時退社の意味は、休むことだ。仕事を別の仕事に置き換えることじゃない。
わかっている。わかっているのに止まれない。
前世と同じだ。
締め切りが見えたら、体が勝手に動く。あと少し。もう少しで全容が掴める。そうやって「あと少し」を積み重ねて、前世では——
視界が白く飛んだ。
蛍光灯。揺れる吊り革。コンビニのサンドイッチの袋。デスクの冷たさ。動かない指。
——あ。
これ、前世のパターンだ。
終電に乗れなかった夜。タクシーにも乗れなかった夜。会社に泊まって、朝まで作業して、次の日も、その次の日も——
「ミコト」
声が遠い。
廊下の壁が、斜めに傾いた。足が——あれ、床はどこだっけ。
膝が折れる。視界が暗くなる。冷たい石の床が近づいて——
温かいものに、包まれた。
腕だ。太い腕が、背中と膝の裏に回っている。硬い胸当ての感触。鉄と革の匂い。
顔を上げる。
レオンの顔が、すぐ近くにあった。切れ長の目が、真っ直ぐこちらを見下ろしている。
いつもの無表情——じゃ、ない。眉間に皺が寄っている。口元が引き結ばれている。その顔には、私が今まで見たことのない何かが浮かんでいた。
「……」
レオンの唇が動いた。何か、呟いている。
聞こえない。耳が遠い。意識が半分飛んでいる。
目の前のレオンの顔がぼやけて、蝋燭の灯りが滲んで——
◇
気がついたら、宿舎のベッドの上だった。
毛布がかかっている。蝋燭が灯っている。窓の外は暗い。——夜だ。
枕元の小さな机に、陶器の椀が置いてあった。
湯気が立っている。
スープだ。野菜と鶏肉の、素朴なスープ。
「食え」
部屋の隅。扉のそばに、レオンが立っていた。壁に背を預けて、腕を組んで。いつもの定位置。
「……これ」
「食え。休め。明日やれ」
三つ。短い命令が三つ。
でも、その声は命令の温度じゃなかった。低くて、少しだけ掠れていて、強いのに——どこか、お願いするみたいな響きがあった。
(……怒ってる、のかな。私が倒れたから、護衛としての任務に支障が出るとか——)
スープの椀を手に取った。温かい。両手で包むと、指先の冷えが溶けていく。
一口飲んだ。
美味しい。前世のコンビニの味噌汁より、ずっと美味しい。野菜が甘くて、鶏の出汁が優しくて。
「……おいしいです」
「……」
レオンが何も言わない。ただ、私がスープを飲むのを見ている。——いや、見ていない。横を向いている。窓の外の暗闇を。
スープを飲み終えた頃、レオンが扉に手をかけた。
「明日、無理をするな」
「……はい」
「……廊下で倒れる前に、言え」
言えたら倒れてないんですけど、とは言えなかった。その声が、あんまり——きつくて。怒りじゃない。別の何かだ。
扉が閉まった。
レオンの足音が遠ざかっていく。
私はベッドに横になって、空のスープの椀を胸に抱えた。手のひらにまだ温かさが残っている。
◇
翌朝。
机に向かうと、昨夜はなかったものが置いてあった。
羊皮紙の束。
過去五年分の予算申請書と治療記録の抜粋が、年度順に整理されていた。書庫から引き出して、矛盾する箇所に薄く線が引いてある。正確で、無駄がなくて、整理の仕方が——几帳面すぎる。神官の筆跡ではない。もっと角張った、硬い字だった。
「……誰が?」
首を傾げて、フィーネを探した。
「フィーネさん、この資料、誰が置いたかわかる?」
「え……夜番の者が整理したんじゃないでしょうか」
フィーネの目が泳いでいた。——何か知っている顔だ。でも、聞いても答えなさそうな気配がある。
(夜番か。……まあ、誰にせよありがたい)
資料に目を通す。矛盾は、明確だった。
水増しされた治療件数。連動して増額された予算。実際には消費されていない薬草。そして——増額分の予算の行き先が、帳簿のどこにも記載されていない。
(消えた予算。消えた記録。消えた前任聖女の三ヶ月)
全部、繋がっている気がする。まだ全容は見えない。でも——見えかけている。
「聖女様」
フィーネが、小さな声で言った。
「あの……噂なんですけど」
「何?」
「猊下が、王宮に上奏書を出す準備をしているって……聖女様の罷免を求める内容だと、先輩の神官が言っていました」
罷免。
手が止まった。
(……ああ、そうか。証拠に近づいているから、先に私を排除する気か)
前世なら、ここで終わりだ。上司に切られたら、派遣社員に居場所はない。荷物をまとめて、出口に向かうだけ。
でも——私の手元には契約書がある。そして今、机の上には数字がある。
「フィーネさん」
「はい」
「この資料、全部写しを取っておいて。二部。一部は私が持つ。もう一部は——」
少し考えて、
「あなたが持っていて」
フィーネが目を見開いた。
「わ、私がですか?」
「記録は、一箇所に集めちゃだめなの。バックアップは別の場所に」
(前世で学んだ教訓。大事なデータは必ず二重に保存する。消されてもいいように)
フィーネが頷いて、羊皮紙を抱えて走っていった。
私は窓の外を見た。朝の光が神殿の尖塔を白く照らしている。
罷免が来るなら、来ればいい。こちらには数字がある。
——ただ、この数字を公にする手段が、まだない。




