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社畜聖女は定時で帰りたい  作者: 九葉(くずは)


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第5話 数字は嘘をつきません

 宮廷の茶会に招かれた時点で、何かあるとは思っていた。


 召喚から一ヶ月。改革が軌道に乗り始めた矢先の招待状。差出人はリゼルテ殿下。あの割り込み治療を断った王女だ。


 「聖女様の日頃のご尽力に感謝を込めて」──招待状の文面は丁寧そのもの。けれど、十日ほど前に使者を手ぶらで帰したばかりの相手が、わざわざ感謝の茶会を開く。


(……前世の勘が「罠です」って叫んでる)


 でも、断れない。王女からの招待を拒否すれば、それこそ「聖女の怠慢」の口実になる。


 だから準備した。


 前夜からフィーネに手伝ってもらって、改革前後の統計を羊皮紙にまとめた。治癒成功率。平均待ち時間。重症患者の生存率。薬草処方件数。神官の勤務時間の推移。——全部、着任初日からフィーネに毎日記録させてきた数字だ。


(クライアントとの接待には、必ず資料を持っていく。広告代理店の鉄則その三)


 ◇


 宮廷の茶会場は、花の匂いが濃すぎた。


 白い円卓がいくつも並び、銀の茶器が光を弾いている。出席者は二十名ほど。貴族の夫人たちが色とりどりのドレスで着飾り、社交の微笑みを浮かべている。


 私の服は神殿支給の白い法衣。


 場違い。


 でも、場違いなのは承知の上だ。ここは戦場で、武器は数字。服装で勝負する場所じゃない。


 入口でリゼルテ殿下を確認した。


 遠い席。こちらを見ていない——ように見える。二十代後半くらいの、品のいい微笑みを浮かべた女性。蜂蜜色の巻き髪に宝石が光っている。慈善事業で名高い「慈悲深い王女」。


(……この距離感が、逆に怖い。直接仕掛けてこないタイプだ)


 席に着く。隣の椅子は空席。右隣の夫人が、ちらりとこちらを見て目を逸らした。


 ——始まった。


「聖女様」


 正面の席の夫人が、扇子で口元を隠しながら声をかけてきた。柔らかい声。社交的な笑顔。


「最近、神殿の運営を大きく変えられたそうですわね」


「ええ、はい。少しずつですが」


「定時退社、とか?」


 笑みの温度が変わった。周囲の夫人たちが、茶碗を持つ手を止めた。


「聖女様が定時にお帰りになっている間、民は苦しんでいるのではないかと……心配する声もございますの」


 声が会場に響く。聞こえるように言っている。


 他の夫人たちが頷く。「そうですわね」「民のことを思えば……」。同調の波が広がる。仕込まれていた。この質問が、この空気が、全部——。


(やっぱりね。こっちが本番か)


 孤立。


 二十人の貴婦人に囲まれて、味方はゼロ。茶会の席で、笑顔の刃物を向けられている。


 ……知ってる、この感覚。前世のクライアントミーティングで、担当者に詰められた時と同じ。「進捗は?」「なぜ遅れている?」「責任は誰が取るんですか?」——笑顔で囲まれて、退路を塞がれる。


 あの時は、何も言い返せなかった。


 今は違う。


「お心遣い、ありがとうございます」


 私は鞄——じゃない。前世じゃない。膝の上に置いていた羊皮紙の束を取り出した。


「ご懸念はごもっともです。ですので、数字をお持ちしました」


 扇子の夫人の目が、一瞬だけ揺れた。


「こちらが、着任前と着任後の治療実績の比較です」


 羊皮紙を広げる。数字の列が並んでいる。


「重症患者の治癒成功率は、着任前の七割から九割三分に向上しています。平均待ち時間は半日から二時間に短縮。軽傷者への薬草処方の導入により、回復魔法に頼らない治療件数は一日あたり四十件増加しました」


 会場が、静まった。


「定時退社——正確には、適切な休息の確保ですが——その結果、回復魔法一回あたりの効果が向上しています。術者の消耗を抑えることで、重症者への治療精度が上がるからです」


 淡々と。感情を入れない。前世の進捗報告と同じ。クライアントには数字で語れ。感情論には数字で返せ。


「つまり、定時退社をした結果、民が受けられる治療の質は向上しております。数字は嘘をつきません」


 沈黙。


 扇子の夫人の口が、開いて——閉じた。


 周囲を見回す。さっきまで同調していた夫人たちが、茶碗に視線を落としている。誰もこちらを見ない。誰も発言しない。


(……数字の前では、空気で殴るやり方は通用しない。前世で学んだ数少ない教訓)


 リゼルテ殿下の席をちらりと見た。微笑みは崩れていない。扇で口元を隠して、何か隣の侍女に囁いている。——表情を読ませない人だ。


 沈黙を破ったのは、奥の席の年配の夫人だった。


「……興味深いですわね。その数字、後日詳しくお見せいただけますか」


「もちろんです」


 空気が、ほんの少しだけ動いた。全員が敵、ではないらしい。


 ◇


 茶会の間、レオンは私の斜め後ろに立っていた。


 他の護衛騎士たちは壁際に控えている。部屋の隅で、できるだけ目立たないように。それが茶会における護衛の作法なのだろう。


 レオンだけが、私の椅子のすぐ横にいた。


 糾弾が始まった瞬間、一歩前に出てきた。何も言わない。ただ立っている。百九十センチの壁。


「護衛ですか」


 データを出し終えた後、小声で聞いた。


「そうだ」


 いつもの一言。


 レオンの横顔を見上げた。表情は読めない。切れ長の目は正面を向いている。顎の線が——硬い。奥歯を噛みしめているのか、咬筋がわずかに盛り上がっている。


 ふと、レオンの右手に目が行った。


 拳を握っている。かすかに——震えている。


(……寒いのかな。室内だけど、窓が開いてるし)


 茶会場の窓から、初夏の風が吹き込んでいた。寒いはずはないのだけれど、まあ、人それぞれだ。


「お茶、飲みます?」


「……いらない」


 レオンが小さく息を吐いた。拳をゆっくり開いて、指を一本ずつ伸ばしている。深呼吸のような仕草。


(緊張してたのかな、この人も。……なんだろう、ちょっと安心する。この場で緊張してるの、私だけじゃなかったんだ)


 ——違うのだけれど。それは、私にはわからなかった。


 ◇


 帰りの馬車は、レオンと二人きりだった。


 揺れる車内で、私は茶会に持っていった羊皮紙を広げ直していた。数字を見返す。指で追う。改革後の数値は自信を持って出せた。問題は——


「……あれ」


 手が止まった。


 改革前の治療記録。オルヴァス猊下が管理していた、着任前の過去三年分のデータ。茶会のために書庫から引き出したものだ。


 数字がおかしい。


 一日あたりの治療件数が、月によって大きく跳ねている。ある月は一日二十件。翌月は一日六十件。その翌月はまた十五件。


(患者数にこんな波があるのは不自然だ。季節性の流行病ならパターンがあるはずだけど、これはランダムすぎる)


 そして——治療件数が跳ね上がった月の収支報告。王宮への予算申請額が、治療件数に比例して増えている。件数が多いほど、予算も多い。


 でも、薬草の消費量は横ばいだ。


 治療件数が三倍に増えた月に、薬草の消費が増えていない。回復魔法だけで三倍の患者を診た? 一人の聖女が?


(……それは無理だ。物理的に。前任聖女サラの記録を見た時、一日四十件でキャパオーバーだった。六十件なんて、数字の上でしか存在しない患者じゃないと説明がつかない)


 馬車が石畳の段差で揺れた。


「……どうした」


 レオンの声。


 私は顔を上げた。レオンが、向かいの席からこちらを見ている。


「……いえ。ちょっと、数字の確認をしていて」


「顔色が悪い」


「大丈夫です」


 大丈夫です。また出た。前世の口癖。


 でも、大丈夫じゃない。


 この数字が意味することは——治療記録が水増しされている。実際には存在しない治療件数で、王宮から予算を引き出していた可能性がある。


(数字は嘘をつかない。でもこの数字は——嘘をついている)


 誰が。何のために。


 馬車の窓の外を、夕暮れの王都が流れていく。


 私は羊皮紙を丁寧に折り畳んで、胸元にしまった。


 ——調べなければ。もっと詳しく。もっと正確に。この矛盾の先に、何があるのか。


 窓の向こうで、神殿の尖塔が夕陽に赤く染まっていた。

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