第4話 偶然が三週続くのは統計的にありえません
異世界に来て初めての休日に、私はパン屋に行った。
召喚から三週間。シフト制が安定して、ようやく丸一日の休みが取れるようになった。フィーネと見習い神官たちが薬草処方フローを回してくれるおかげで、私が治療院にいなくても軽傷対応は止まらない。
(仕組みが回っている。前世では味わえなかった感動がここに……)
宿舎の扉を開けたら、廊下にレオンが立っていた。
いつもの黒い騎士服。腕組み。壁に背を預けて。
「……今日は非番では?」
「そうだ」
「では、護衛も非番ですよね」
「……そうだ」
じゃあなぜここにいるんですかと聞きたかったが、レオンの目が微妙に泳いでいた。泳いでいる、というか——一点だけ見ないようにしている。私の手に持っている王都の地図を。
昨夜、フィーネに教えてもらった美味しいパン屋の場所に印をつけた地図。「パン屋巡りがしたいんです」と話したのは、一週間ほど前の退勤時だった気がする。
「……散歩か」
「パン屋巡りです」
「そうか」
レオンが歩き始めた。私の半歩前。いつもの定位置。
(……非番なのに護衛の定位置にいる人って何なんだろう)
まあ、いいか。一人より二人のほうが、道に迷った時に安心だし。
◇
王都の朝市は、活気があった。
石畳の通りに屋台が並び、果物や花や干し肉の匂いが混ざり合っている。朝の光が建物の壁を白く照らして、どこかの家の窓から洗濯物がはためいている。
いい天気だ。
——こういう朝を、前世では知らなかった。朝は会社に向かう電車の中で、窓の外を見る余裕もなくて。
「最初の店はこちらだ」
レオンが角を曲がった。迷わない。
「……え、知ってるんですか?」
「たまたま知っていた」
たまたま。
路地の奥に、小さなパン屋があった。煉瓦の壁に蔦が絡まり、看板は木彫りで手作り感がある。開け放った窓から、焼きたてのパンの香ばしい匂いが溢れていた。
「ここです?」
「……悪い店ではない」
(悪い店ではない。レオンの語彙で言うと、これは褒め言葉なんだろうか)
中に入る。石窯から出したばかりのパンが並んでいた。丸パン、くるみパン、はちみつの塗られた平たいパン。どれも素朴で、おいしそうで、値段は神官見習いの日給で三つ買えるくらい。
くるみパンを一つ買った。
店の前のベンチに腰かけて、かじる。
外はカリッと。中はふわっと。くるみの甘い油がじわっと——
「……おいしい」
思わず目を閉じた。
口の中にパンの温かさが広がって、なんだか泣きそうになった。前世で最後に食べたのは、コンビニのサンドイッチだった。デスクの上で、パソコンの画面を見ながら。味なんて覚えていない。
目を開ける。
隣を見ると、レオンが——こちらを見ていた。
いや、見ていた、というか。何か考え込むような、探るような目で。切れ長の目にほんの少しだけ色が滲んでいて——
目が合った瞬間、レオンがすっと視線を逸らした。通りの向こうを見ている。横顔。表情は、もう読めない。
「……レオンさんも食べます?」
「いらない」
「おいしいですよ」
「……」
私がくるみパンを差し出すと、レオンはしばらく黙ってから、不器用にちぎって口に入れた。咀嚼している間、一切こちらを見ない。
「どうですか」
「……悪くない」
(それ、さっきも聞いた)
二軒目はレオンの案内だった。「こっちだ」と言って、また迷わず角を曲がる。商店街の外れにある、石窯が二つもある大きなパン屋。
三軒目もレオンが「この先にもう一軒ある」と言った。
三軒目。
「……レオンさん」
「何だ」
「パン屋にお詳しいんですね」
「……たまたまだ」
レオンの手元に、折り畳まれた紙が見えた。——地図だ。小さな印がいくつもついている。パン屋の場所に。私の地図とは別の、もっと詳しい地図。
(たまたまにしては……準備がよすぎませんか?)
でも、追及する前にレオンが歩き始めてしまった。長い足で先を行く背中を小走りで追いかける。
……まあ、悪い気はしない。
◇
騎士団の詰所で、副団長ハインツは顎に手を当てていた。
机の上に広げたシフト表。今週の非番欄に「レオン・ヴァルトシュタイン」の名前。
先週の非番欄にも。
先々週の非番欄にも。
そして、聖女ミコトの休日欄も——三週連続で同じ曜日。
「団長」
午後に戻ってきたレオンに、ハインツは書類を突きつけた。
「偶然が三週続くのは、統計的にありえません」
「偶然だ」
レオンは表情を変えなかった。眉一つ動かさない。いつもの彫像のような顔。
「偶然にしては、今日は随分と遠回りの散歩をされたようですが。パン屋を三軒も回って」
「護衛の巡回経路にパン屋が含まれていただけだ」
「巡回経路にパン屋は含まれません」
「……」
「団長。私は別に止めませんよ。ただ——」
ハインツは肩をすくめた。
「もう少しうまくやったらいかがですか」
レオンは無言で自分の机に向かった。ペンを取り、報告書を書き始める。会話は終わり。
ハインツはため息をついた。
(この人、剣術は国内一なのに、こういうことだけ不器用なんだよなあ……)
◇
帰り道は夕暮れだった。
オレンジ色の光が石畳を染めて、影が長く伸びている。手に持った紙袋には、三軒目で買ったはちみつパンの残り。明日の朝ごはんにする。
「聖女様!」
声をかけられた。振り向くと、老婦人が笑顔で手を振っている。
「先日は薬草の処方をいただいて、ありがとうございました。おかげで孫の咳がすっかり良くなって」
「あ……それはよかったです」
「待ち時間も短くなって、本当に助かっておりますよ。前はもう、朝から並んで半日がかりで……」
別の男性も寄ってきた。
「聖女様、うちの妻も世話になりました。ありがとうございます」
「神殿、変わりましたよね。以前と全然違う」
一人、二人、三人。
すれ違う市民が次々と声をかけてくる。笑顔で。感謝の言葉を添えて。
——ありがとう。
前世では、聞いたことのない言葉だった。
広告代理店で進行管理をしていた五年間。スケジュールを守って当たり前。納品して当たり前。「ミコトさんがいなかったら困る」と言われたことはあったけど、「ありがとう」は——一度も。
視界がにじんだ。
……だめだ。ここで泣くのは違う。泣くようなことじゃない。当たり前のことをしただけだ。仕組みを作っただけだ。
レオンが、黙って半歩前に出た。
大きな背中が、市民の視線を遮る。私の顔が見えない位置に。
何も言わない。振り返りもしない。ただ、いつもの半歩前から——少しだけ近い位置に立って、そのまま歩き続けた。
(……任務、なんだろうな。護衛だから。泣いてる聖女を市民に見せないのも、仕事のうち)
鼻をすすった。紙袋のパンの匂いが、ほんのり温かい。
「——レオンさん」
「何だ」
「ありがとうございます」
「……任務だ」
その声が、いつもより半音低い気がしたのは——たぶん、気のせいだ。
◇
二人が宿舎の門をくぐった後。
通りの角に、一人の男が立っていた。
紺色の外套。胸元に精緻な刺繍。——十日ほど前、治療院の受付で予約外の割り込みを断られた、あの侍従だった。
男は二人の背中を見届けてから、懐から小さな手帳を取り出し、何かを書きつけた。
その報告は、翌日の夕刻には宮廷に届いていた。




