第3話 聖女の予約は三日先まで埋まっております
薬草の青い匂いが、神殿の朝に馴染み始めた頃──予約外の来客が現れた。
召喚から九日目。トリアージ導入から五日。
治療院は見違えるほど落ち着いていた。朝から晩まで途切れない行列は消え、代わりに予約票を手にした患者が時間通りにやってくる。軽傷者は薬草処方の窓口に誘導され、フィーネと見習い神官たちが手際よく対応している。
「聖女様、次は予約の三番、農家の方です。足首の捻挫が悪化して——」
「わかった。入ってもらって」
フィーネが処方の手順をしっかり覚えていて、もう私が横についていなくても回る。一週間前まで十六時間労働で青い顔をしていた子が、今は背筋を伸ばして患者に薬草茶の飲み方を説明している。
(……よし。仕組みが人を育ててる)
進捗、良好。
この調子で定着させれば、回復魔法に頼らない軽傷対応のフローが確立できる。私の負荷もさらに下がる。定時退社が夢じゃなくなってきた——
「——聖女様に面会を求める方がいらしています」
見習い神官の一人が、困った顔で受付から駆けてきた。
「予約の方?」
「いえ、その……予約はないそうですが、引き下がらなくて」
受付に出ると、場の空気が違っていた。
一人の男が立っている。仕立てのいい紺色の外套。胸元には精緻な刺繍のワッペン。貴族の侍従だ。——それも、かなり格の高い家に仕える者の装いだった。
「聖女様でいらっしゃいますか」
丁寧な口調。でも腰は低くない。見下ろすような目線。「格上の用件で来た」という自負が、姿勢ににじんでいる。
「はい」
「リゼルテ殿下よりご推薦をいただいた方の治療をお願いしたい。本日中に」
リゼルテ。
王女の名前だ。召喚の日にオルヴァスから渡された資料で見た。第二王女。神殿の監督権を持つ王族。
(……殿下のご推薦、ね。要するに、割り込みだ)
前世で何度も見た光景が蘇る。大口のクライアントが「急ぎの案件」と称してスケジュールをぶち壊しにくるやつ。営業が頭を下げて受けて、徹夜するのは現場のディレクター。
あの頃は断れなかった。
でも今は、仕組みがある。
「申し訳ございません」
私は受付台の予約表を開いた。
「当神殿では、治療の公平性を保つため、予約制度を導入しております。聖女の治療は——」
指で日付欄をなぞる。
「三日先まで埋まっております。ご予約をいただければ、四日後の午前にご案内できますが」
侍従の目が、わずかに見開かれた。
「……聖女様。リゼルテ殿下のご推薦です。ご理解いただけますか」
「ええ、理解しております」
にっこり。営業スマイル二号。前世で鍛えた「丁寧だけど一切譲らない」顔。
「ですが、聖女は民全体に奉仕するものですので。順番は公平に。殿下のご推薦であっても、予約外の割り込みには対応いたしかねます」
沈黙。
侍従の口が開いて——閉じた。
開いて——また閉じた。
(何か言い返したいけど、「公平」と「予約制度」を正面から否定すると、殿下の体面に傷がつく。だから言えない。——わかるよ、板挟み。前世の営業もそうだった)
「……承知しました。殿下にはそのようにお伝えいたします」
侍従が踵を返す。その背中は、来た時より低かった。
受付の見習い神官が、口をぽかんと開けている。
「せ、聖女様……あの、あの方、王女殿下の……」
「予約外は予約外です」
私は予約表を閉じた。
(リゼルテ殿下、か。……この割り込みを通そうとする人がいるということは、治療枠が政治的な道具になっている可能性がある)
覚えておこう。今は、まだ手を出す段階じゃない。
◇
午後の治療を終えてから、私は書庫に向かった。
業務改善の一環で、過去の治療記録を整理する必要がある。何件の患者をどの頻度で治療してきたのか。薬草の消費量と在庫。回復魔法の使用回数と術者の消耗度。
数字がなければ改善もできない。——エビデンスは正義です。前世の進行管理の鉄則。
書庫は神殿の地下にあった。埃っぽくて、薄暗くて、蝋燭の灯りが石壁に揺れている。棚にぎっしり詰まった革装の帳簿を引っ張り出して、年度ごとに分類していく。
三年前。五年前。七年前——。
手が止まった。
一冊の帳簿。表紙に「聖女業務記録」と書かれている。
開く。
前任聖女の名前が記されていた。——サラ。
治療件数。日次の記録。回復魔法の使用回数。几帳面な字で丁寧に書かれている。この聖女、記録をちゃんとつけていたんだ。
ページをめくる。
順調に見える記録が——ある時期から、途切れていた。
空白。
三ヶ月分の記録が、まるごと抜けている。
その前のページには、治療件数が異常に多い週が続いていた。一日に四十件、五十件。私の今の倍以上。休日の記載はゼロ。
(……これ、明らかにキャパオーバーだ。こんな件数を一人の聖女で捌いたら、体が保つわけがない)
空白の後のページを探す。
ない。
帳簿はそこで終わっていた。空白の三ヶ月の後に何が起きたのか——記録がない。
「……フィーネさん」
退勤間際、廊下でフィーネを捕まえた。
「前の聖女様のこと、少し教えてもらえますか」
フィーネの顔が強張った。召喚初日にも同じ反応をした。——この子は何かを知っている。知っていて、言えないでいる。
「前の聖女様は……ある日、急に倒れられて」
「急に?」
「はい。それまでは毎日お元気そうに見えて……でも、あの日の朝、治療院にいらっしゃらなくて。お部屋に行ったら、ベッドの上で意識がなくて……」
フィーネの声が震えている。
「それからはずっと、お体が……そのまま……」
言葉を濁して、俯いた。
「……ありがとう、フィーネさん。無理に聞いてごめんなさい」
「いえ……あの、聖女様」
フィーネが顔を上げた。目が赤い。
「聖女様は、定時で帰ってくださいね」
——この子は、前の聖女を見ているのだ。
目の前で倒れた人を。それなのにまた、同じ場所で働いている。
「帰りますよ。毎日」
そう言って、私は書庫の記録を抱えたまま、退勤した。
◇
神殿の門を出たところで、レオンが待っていた。
いつもの定位置。門の脇。腕を組んで、壁に背を預けている。夕焼けが黒い騎士服の肩を赤く染めていた。
「……ミコト」
足が止まった。
「……え?」
「退勤か」
「あの、今——」
「何だ」
「名前、で呼びました?」
レオンの切れ長の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
一拍。
「……呼びやすいからだ」
それだけ言って、歩き始める。私の半歩前。護衛の定位置。
(呼びやすいから。……ただそれだけ、か)
「聖女」という役職名から「ミコト」になった。それだけのことだ。前世でも上司が急に下の名前で呼んできたことがあったけど、あれは単にフランクな人だっただけだし——
……いや、レオンはフランクとは程遠い人だ。「そうか」「問題ない」「任務だ」。会話の九割がこの三つで構成されている人が、わざわざ呼び方を変える。
(まあ、呼びやすいなら、いいか)
深く考えないことにした。
宿舎への道を並んで歩く。私の歩幅に合わせてくれているのか、レオンの歩みはいつもよりゆっくりだった。——多分、いつもそうなんだろうけど。気づいたのは今日が初めてだった。
「レオン卿」
「レオンでいい」
「……レオンさん」
「好きに呼べ」
(好きに呼んでいいのか、好きに呼べと命令されているのか、どっちなんだろう)
宿舎の前で立ち止まる。
「今日もありがとうございました」
「任務だ」
また同じ台詞。でも、昨日までは「聖女の護衛は任務だ」だったのが、今日は——ただ「任務だ」とだけ。
レオンが去っていく背中を見送って、扉を閉めた。
部屋に入る。灯りをつける。
机の上に、書庫から持ち出した帳簿を広げた。
前任聖女サラの記録。空白の三ヶ月。異常な治療件数。そして——倒れた。
(記録が三ヶ月分まるごと消えている。管理ミスにしては不自然すぎる。誰かが意図的に抜いたか、あるいは——最初から記録させなかったか)
胸の奥で、前世の勘が警報を鳴らしている。進行管理の鉄則。記録の空白は、意図的な空白だ。「なかったこと」にしたい何かがある時、人は記録を消す。
窓の外は暗くなっていた。蝋燭の灯りが帳簿の古い紙を照らす。
何が隠されているのか——まだわからない。でも、この記録は手元に置いておく。
◇
同じ頃。
深夜の治療院で、フィーネは翌日分の薬草を仕分けしていた。
棚の向こうから、かすかな物音がする。
覗くと——重い薬草箱を黙々と持ち上げる、大きな背中。
「……団長、またですか」
フィーネの声に、レオンは振り返らなかった。最後の箱を棚に押し込んで、乱れた処方用紙を揃えて、蝋燭を手に取る。
「夜番の仕事だ」
「夜番はもうシフト制になりましたけど」
「……」
レオンが黙って出ていく。その背中を見送りながら、フィーネは小さくため息をついた。
——聖女様は、きっと知らない。毎晩、この人がここにいることを。




