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社畜聖女は定時で帰りたい  作者: 九葉(くずは)


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2/10

第2話 本日の受付は終了しました

「——回復魔法にも、優先順位をつけます。今日からです」


 召喚四日目の朝。大神官の執務室に持ち込んだ羊皮紙の束を、私はオルヴァスの机にそっと置いた。


 そっと、だけど、退く気はない。


「……これは?」


 オルヴァスが羊皮紙を手に取る。慈悲深い微笑は健在。でも目は笑っていない。初日の契約交渉の時と同じだ。この人は目で値踏みする。


「トリアージ制度の導入案です。患者を重症度で三段階に分け、軽傷者は薬草処方で対応。回復魔法は中〜重症者に集中させます。併せて、神官の勤務をシフト制に切り替える提案書も」


「……トリ、アージ?」


「優先順位付けです。限られた資源を、最も効果的に配分するための仕組み」


 前世の広告代理店では、これを毎日やっていた。案件の優先度を決め、リソースを振り分け、全体の回転率を上げる。呼び方が違うだけで、やることは同じだ。


 オルヴァスが羊皮紙をめくる。丁寧に読んでいる——ふりをしている。指の動きが速すぎる。中身を精査する気はない。


「聖女様」


 穏やかな声。


「お心遣いは有り難く存じます。しかし、神殿には神殿のやり方がございまして。この制度は——前例がございません」


 出た。


(前例がない。前世で何百回聞いたかわからないフレーズ。広告代理店の部長も同じこと言ってたなあ……結局あの人、定年まで何も変えなかったけど)


「猊下」


 私は、笑顔を作った。営業スマイル。前世の遺産。


「では伺います。もし私が三日後に倒れた場合、代わりに回復魔法を使える人材は、この神殿にいらっしゃいますか?」


 沈黙。


 オルヴァスの笑顔が、ほんの一瞬だけ——固まった。


 聖女の回復魔法は固有能力。代替がきかない。それはオルヴァスが一番よく知っているはずだ。前の聖女が倒れた時に——


 ……いや、前の聖女のことは、まだよくわからない。フィーネが言葉を濁したあの反応が気にはなるけど、今は目の前の交渉に集中する。


「……一週間の試行、ということでしたら」


「ありがとうございます」


 深く頭を下げた。試行で十分。数字が出れば、こちらのものだ。


 ◇


 治療院の空気が変わったのは、朝の鐘が三つ鳴った頃だった。


「聖女様、軽傷の方をそちらに回すなんて——」


 年配の神官が眉をひそめる。


「手を抜いているように見られます」


「手を抜いているのではなく、手の使い方を変えたんです」


「しかし——」


「佐藤さん——あ、いえ」


 つい前世の癖が出た。ここに佐藤さんはいない。


「失礼。……見ていてください。午前中の結果で判断していただければ」


 神官が不満顔のまま持ち場に戻る。周囲の視線が刺さる。「聖女が怠けている」。聞こえるか聞こえないかの囁き声が、治療院のあちこちで漏れている。


 ——知ってる、この空気。新しいことをやろうとした時に起きる、組織の免疫反応。


 無視。今は手を動かす。


「フィーネさん、次の方をお通しして」


「は、はいっ」


 フィーネが慌てて患者を案内する。トリアージ表を手に、重症度を確認して振り分ける。教えたのは昨夜だ。飲み込みが早い子で助かった。


 重症の農夫が運ばれてくる。足の骨折。化膿しかけている。


 以前の方法なら、この人の前に軽傷者を十人診ている。その間に消耗して、重症者を診る頃には魔力が擦り減って、治癒の精度が落ちる。


 今日は違う。


 私は温存した魔力を、この一人に集中させた。


 掌から光が溢れる。骨が繋がる感覚。肉が塞がる感覚。——前世にはなかった、この手から命を注ぎ込むような不思議な温かさ。


「……あ」


 農夫が目を見開いた。


「痛くない。——痛くない! 聖女様、足が……!」


 立ち上がる。おそるおそる体重をかけて、そして——泣いた。


 周りの患者たちがざわめく。待合の列から拍手が起きた。


「次の方、どうぞ」


 私は淡々と言った。


 午前が終わった時、フィーネが数字をまとめてくれた。


「聖女様……重症者の治癒にかかる時間が、昨日までの三分の二になっています」


「でしょうね。魔力を無駄遣いしてないから」


「待ち時間も半分以下です。軽傷の方は薬草処方で回転が——」


「フィーネさん、それ、紙に書いておいて」


「え?」


「数字は記録しないと意味がないの。エビデンスは正義です」


 フィーネがきょとんとした顔で「えびでんす」と呟いたけど、素直に書き始めてくれた。


(……いい子だ。この子の労働環境も、なんとかしないと)


 午後も同じ要領で回した。夕刻の鐘が鳴る頃には、治療院の空気が明らかに変わっていた。朝は不満顔だった神官たちが、黙っている。数字の前に感情論は通じない。


 そして。


「——私、定時で帰ります」


 治療院が、凍った。


 フィーネが目を丸くしている。神官たちが振り返る。患者の列はまだ残っている。軽傷者が数名。


「残業は命に関わるので」


 冗談ではなく、本気だ。文字通り——命に関わる。私はそれを身をもって知っている。


「で、でも聖女様、まだ患者が——」


「軽傷の方には薬草処方の手順書を渡してあります。神官の皆さんで対応できます。明日の朝、また来ますから」


 立ち上がった。足が震えていた。三日間の蓄積疲労はまだ抜けていない。


 でも、帰る。


 今日は、帰る。


 ◇


 神殿の正門に、人影が立っていた。


 百九十センチの壁。


 レオン・ヴァルトシュタインが、腕を組んで門の真ん中に仁王立ちしていた。


 夕陽を背に、黒い騎士服の長身が門を塞いでいる。押しかけてきた依頼人——商人風の男が、レオンを見上げて明らかにたじろいでいた。


「あ、あのう、聖女様にお目通りを——」


「本日の受付は終了しました」


 低い声。抑揚がない。事務的。だけど、その声の持ち主が百九十センチの騎士団長で、腰に剣を佩いていて、切れ長の目で見下ろしてくるとなると——まあ、帰るしかない。


 商人が引き下がっていく。その後ろからも二人ほど来ていたが、レオンの姿を見た時点で踵を返した。


「……騎士団長自ら門番ですか」


 思わず声をかけると、レオンがこちらを向いた。表情は変わらない。


「護衛だ」


「護衛の仕事に門番は含まれるんですか?」


「お前が倒れたら国が困る。だから帰れ」


 帰れ、と言われたのは依頼人に、じゃなくて——私に?


「……私に帰れって言ってます?」


「そうだ」


(……この人、本当に言葉が少ないな)


 でも——不思議と、嫌な気はしなかった。


 「お前が倒れたら困る」。それは事実の指摘であって、優しさではない。任務上の合理的判断。護衛対象が壊れたら任務失敗、それだけのこと。


 わかっている。


 わかっている、けど。


 初日に差し出された水筒の温度を、手のひらがまだ覚えていた。あの白湯は、確かに温かかった。


「……では、お言葉に甘えて」


 正門を出る。背後で、レオンがまだ立っている気配がした。門を塞いだまま、動かない。


 夕暮れの風が吹いた。石畳の匂い。遠くからパン屋の焼ける匂い。


 ——帰れる。


 前世では、最後まで言えなかった言葉。「帰ります」。たった五文字が言えなくて、私は死んだ。


 今日は言えた。


 足取りが、少しだけ軽くなった。


 ◇


 深夜の治療院に、蝋燭の灯りが一つ残っている。


 フィーネは翌朝の準備のために戻ってきたのだが——足を止めた。


 薬草棚の前に、大きな背中が見える。


 騎士団長が、黙々と薬草箱を棚に上げていた。重い木箱を軽々と持ち上げ、所定の位置に収めていく。机の上に散らばっていた翌日分の処方用紙は、もう整頓されている。


「……団長」


 フィーネの声に、レオンが振り返った。


「……何だ」


「あの、それ、聖女様の——」


「夜番の仕事が残っていた。片付けただけだ」


 嘘だ、とフィーネは思った。夜番は今日、シフト制の導入でもう配置が変わっている。残務があるとしたら、聖女が退勤した後の分だけ。


 ——それを、この人が。


「団長。聖女様には……」


「言うな」


 短い一言。それだけ言って、レオンは最後の木箱を棚に押し込み、蝋燭を吹き消して出て行った。


 暗くなった治療院で、フィーネはしばらく立ち尽くしていた。


 ◇


 同じ頃——。


 大神官の執務室。


 神官の一人がオルヴァスの前に立ち、苛立ちを隠さずに言った。


「猊下。聖女が定時で帰ると言い出しました。患者を残したままです。——これは怠慢ではございませんか」


 オルヴァスは書類から顔を上げなかった。


 羽根ペンの先が、帳簿の数字をなぞっている。


「……少し、様子を見ましょう」


 その唇が、薄く弧を描いた。

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