第10話 俺が、お前と歩きたい
パンの焼ける匂いが、王都の朝を塗り替えていく──。
評定から一週間。神殿の治療院は、嘘みたいに穏やかだった。
予約票を手にした患者が、時間通りにやってくる。薬草処方の窓口ではフィーネが──いや、正式な神官になったフィーネが、てきぱきと対応している。三つ編みは変わらない。でも目の下の隈が消えている。背筋が伸びている。
「聖女様、午前の重症患者は二名です。午後はシフト交代で、マリアが引き継ぎます」
「ありがとう、フィーネさん」
シフト表が壁に貼ってある。私が作った雛形を、フィーネが改良した版だ。見習い時代の彼女には渡せなかった「引き継ぎ権限」を、正式な神官として行使している。
(……仕組みが、人を育てて、人が仕組みを育てている。これだ。これが見たかった)
新しい大神官は、穏健派のベルント神官。オルヴァスの反面教師とでも言うべき人物で、私の改革案を読んで「合理的ですね」と二回頷いただけで承認した。あの二十年間の「前例がない」は何だったんだろう。
そして──昨日、王宮から正式に通達が届いた。
「聖女の労働基準に関する王令」。
シフト制。トリアージ制度。予約制度。定時退勤の権利。──全部、制度になった。法令として。王の名において。
(定時退社が、法律になった。……前世の私が聞いたら泣くな。いや、泣かないか。前世の私はそういう時に泣けない人だったから)
ミコトがいなくても回る仕組み。
それが、本当に完成した。
「フィーネさん」
「はい」
「これが本当の進行管理ですよ」
「……しんこうかんり?」
「自分がいなくても回る仕組みを作ること。前の職場では、最後までできなかったやつ」
フィーネがきょとんとした顔をして、それから笑った。
「聖女様は時々、不思議なことを言いますね」
「ありがとう。褒め言葉として受け取っておきます」
◇
午後。定時退勤。
治療院の扉を出ると、廊下にレオンが立っていた。
黒い騎士服。腕組み。壁に背を預けて。──一週間前に聖女護衛に復帰してから、毎日この定位置にいる。
「レオンさん」
「……ミコト」
名前を呼ばれる。召喚から三週目に「呼びやすいから」と言ったあの日から、ずっとこの呼び方だ。
「退勤です」
「そうか」
いつもなら、ここから並んで歩く。私の半歩前。護衛の定位置。パン屋の匂いがする通りを抜けて、宿舎の門まで。
でも、今日はレオンが動かなかった。
壁に背を預けたまま。腕を組んだまま。──何か、言いあぐねている。
レオンが言いあぐねるのを見るのは初めてだった。「そうか」「問題ない」「任務だ」の三語で会話の九割を済ませるこの人が、言葉を探している。
「……護衛任務は」
「はい」
「──本日をもって終了した」
足が止まった。
「え?」
「新しい護衛体制が整った。騎士団から交代の護衛が二名配置される。俺が個人でつく必要はなくなった」
……また、か。
罷免の時と同じだ。護衛任務の解除。また離れる──
「じゃあ、もう一緒に歩く理由ないですね」
口から出た。笑えた、と思う。でもこの笑い方、レオンの護衛記録に「作り笑い」と書かれたやつと同じだ。きっと。目の周りの筋肉の動きが違うやつ。
レオンが私を見た。
切れ長の目。いつもの無表情──じゃ、ない。
眉間に、皺が寄っていた。口元が引き結ばれていた。あの日、廊下で私を抱き止めた時の顔に似ている。何かを堪えている顔。何かを、飲み込まないようにしている顔。
「……ある」
「え?」
「理由は、ある」
レオンの腕がほどかれた。壁から背が離れた。百九十センチの長身が、私の前に真っ直ぐ立った。
「理由は護衛ではない」
沈黙。
廊下に、私たちの呼吸だけが聞こえる。夕方の光がステンドグラスを通って、石の床に色を落としている。レオンの騎士服の肩に、赤と青の光が混ざって紫色の影を作っていた。
「俺が、お前と歩きたい」
声が低い。掠れている。いつものレオンの声より、ずっと不安定で、ずっと──温かい。
「四十七日間の護衛記録に、書けなかった一行がある」
レオンの目が、真っ直ぐ私を見ている。逸らさない。いつもなら逸らす人が、今日は逸らさない。
「『この人のそばにいたい。任務ではなく』──ずっと書けなかった。護衛の報告書に、そんなことは書けない」
四十七日。
水筒の白湯。門前の仁王立ち。夜中の残務処理。パン屋の地図。くるみパンの前で逸らした視線。倒れた時の腕の温度。「軽すぎる」。スープ。薬草茶の保温瓶。──全部。全部、任務じゃなかった。
全部、この人が。
視界がにじんだ。
「……それ、報告書に書いたら大問題ですよ」
声が震えた。笑っている。泣いている。両方同時に。
「だから今、口で言っている」
レオンの声が、ほんの少しだけ──柔らかくなった。
(……この人、十話かかってやっと言葉にしたんだ)
いや、十話じゃない。四十七日と、その後の二週間と、評定の日と──全部合わせた時間。行動で示し続けて、記録に書き続けて、それでも「好き」の二文字が言えなかった不器用な人が、やっと口を開いた。
「……私も」
言った。言えた。前世では言えなかった言葉。「一緒にいたい」なんて、迷惑になるから言えなかった。仕事の関係を私的な関係に変えるのは相手に失礼だと思っていた。一人で全部やらなきゃいけないと思っていた。
「私も、一緒に歩きたいです。護衛じゃなくて」
レオンの切れ長の目が──見開かれた。
あ、と思った。この人のこんな顔、初めて見た。驚いている。本気で驚いている。雪の彫像が溶けたみたいに、表情が動いている。
「……そうか」
出た。いつもの二文字。
でも声が違う。「そうか」の「か」が、少し跳ねている。上擦っている。顎の線が緩んでいる。口元が──
笑っている。
レオンが、笑っている。
口角がほんの数ミリ上がっただけの、地味な笑顔。他の人が見たら気づかないくらいの。でも、毎日この人の横顔を見てきた私にはわかる。
初めて見た。この人の笑顔。
「──じゃあ、パン屋に行きませんか」
「……いいだろう」
レオンが歩き始めた。いつもの半歩前──じゃない。
隣。
私の隣を歩いている。歩幅を合わせて。肩が触れそうな距離で。
廊下を出る。石畳の通り。夕暮れの風。遠くから焼きたてのパンの匂い。
手が、触れた。
レオンの指が、私の指に。ぎこちなく。不器用に。剣を握り慣れた大きな手が、探るようにして私の小さな手を包んだ。
温かい。
召喚初日に差し出された水筒の白湯と、同じ温度だった。
◇
三軒目のパン屋を出た頃、空が茜色に染まっていた。
レオンの手は、まだ私の手を握っていた。離す気配がない。握力は控えめで、でも確実に──指が絡んでいる。
「レオンさん」
「何だ」
「パン、どうでした」
「……悪くない」
(それ、召喚三週目のパン屋巡りの時と同じ感想だな)
「最上級の褒め言葉ですよね、知ってますよもう」
レオンが横を向いた。表情は──見えない。でも耳の先が赤いのは見えた。
(……この人、耳に出るんだ)
帰り道。宿舎の門が見えてきた。
「ミコト」
「はい」
「明日も──」
言いかけて、止まった。
「明日も?」
「……明日も、定時で帰れ」
(それ、告白の続きじゃなかったんだ)
でも、多分──明日も、この人は門の前にいる。護衛じゃなく。非番がたまたま重なるわけでもなく。ただ、一緒に歩きたいから。
「帰りますよ。毎日」
そう言ったら、レオンの手が──ほんの少しだけ、強くなった。
◇
神殿の窓から、フィーネは二人の背中を見送っていた。
夕焼けの石畳を並んで歩く、白い法衣の小柄な聖女と、黒い騎士服の長身の騎士。手が繋がっている。
「……聖女様と団長、手繋いでる」
隣の見習い神官が目を丸くした。
「王都で一番穏やかなデートって噂になってるんですよ。パン屋を三軒回って、手を繋いで帰るだけの」
「団長、笑ってる……初めて見た……」
フィーネは窓枠に頬杖をついて、二人が角を曲がるまで見送った。
夕焼けが薄くなっていく。パン屋の灯りが一つ、二つ、通りに点り始める。
「お二人の非番と休日、また同じ曜日ですよ」
後ろから声がして、フィーネが振り返った。
ハインツ副団長が、腕を組んで廊下に立っていた。シフト表を片手に、にやにやしている。
「偶然ですかね?」
「偶然だろう。──偶然、笑顔にもなったんだろう」
ハインツが肩をすくめた。笑っている。
窓の外で、パンの焼ける匂いが、夕暮れの王都にゆっくりと広がっていた。




